文字を持たなかった昭和 八十(ミヨ子自身について)

 noteに書き始めて100本目(100日目でもある)、区切りとしてこれまでを振り返っておきたい。

 noteを始めた動機は「一(はじめに)」で触れたとおり「自分の言葉で何かを伝える手段がなく、そんな発想すらあり得ず、戦前から戦後をひたすら生きたふつうの人たちのことを書きとめておきた」かったからだ。中でも、夫の陰で目立たなかったミヨ子の来し方、もしかしたら言いたかったのかもしれないことを、世の中に残しておきたいと思った。「文字を持たなかった昭和(の人びと)」はわたしの周りにたくさんいたが、まずミヨ子の半生を書き続けているのはそのためだ。

 ここに書いてきたように、ミヨ子は表面上、特段優れた才能があるようには見えない。「家にあっては父に従い、嫁(か)しては夫に従い、老いては子に従う(三従)」〈74〉という、いまやどんな女性も見向きもしないであろう教えを地でいくような生き方だ。まるで自分というものがないかのように。

 わたしも、どちらかと言えば父親の影響を強く受けると同時に、父親(二夫=つぎお)の存在を常に意識して育った。同じ地域であってもおそらく他の家庭より封建的な秩序が家の中にあり、父親は「絶対」だったのだ。外向的で物知りな父親に比べ母のミヨ子は、愚鈍とまでは言わないが、子供の目に頼りなく映った。どのみち、家の中での決定権は父親にあるのだ。

 そんな意識のまま成長し、大人になっても、家族との関係について考えるときの主な対象はやはり父親だった。父親とうまくいかなかったこと、うまくいくようになったことは、わたしの人生を大きく左右したと言ってよかった。

 ところが、周囲の誰もが健康で長生きすると思い込んでいた父親は、東日本大震災の少し前、83歳であっけなく亡くなった。父親との関係がすでに改善され、じつに多くのことを語り合えるようになっていたわたしは、正直なところ長いこと呆然としていた。一方で、残された母ミヨ子に対しては「一人でちゃんと生きていけるのだろうか」と心配した。なにぶん対外的なことはすべて夫が取り仕切っていたのだから。

 しかし思いがけずミヨ子はしっかりしていた。おしゃべりもほとんどしないおとなしい人、と思い込んでいたのに、弔問客の一人ひとりに夫の最期について克明に語る姿を見て驚いた。一人暮しが始まってからも、料理や身の回りを整えたりは以前からやっていたから当然としても、力仕事と運転以外はほとんど何でもできた(運転免許は持たず、身体上の理由から自転車もある時期から乗らなくなっていた)。

 農業も、田んぼや広い畑は人に貸すしかなくなったが、屋敷周りの小さな畑は以前と同じように自分で耕し、季節の野菜や花を植えては実らせ咲かせ、多めに収穫できたものは近所の人に分けたり、子供たちに送ってくれたりした。

 宅配便の送付状ひとつにしても、父の生前は父が全て書いて取次店に持って行っていたから――つまりわたしは父の筆跡の送付状が貼られた宅配便しか受け取ったことがなかった――ミヨ子の名前で宅配の包みが来たときは驚いたというより、奇妙な感じがした。

 もっとも送付状はミヨ子が書いたのではなく――ミヨ子自身はほとんど文字らしい文字を書かなかった――、わたしからの手紙かなにかを取次店まで持って行って、店の人に代書してもらったものだった。宅配便は自宅まで引き取りに来てくれると知ってからは、包みを取次店に持って行くこともなく、送付状は「宅〇便のお兄さん」に書いてもらっていた。

 わたしは、そんなこんなの「処世術」をミヨ子が会得していくことに驚くとともに、「夫の陰でおとなしくしていたこの人は、じつはとても賢いのかも」と思い始めた。まったくの遅ればせながら。

 わたしの「親への関心」がミヨ子一人に集中するようになってから、次々と新しい発見があった。前述した屋敷周りの畑での耕作もそのひとつだ。年に一、二回しか帰省していないが、いつ見ても畑はきれいに整い、季節の野菜が成長していた。水菜が畑の隅でふさふさと――としか形容しようがない――生えているのを目にしたときは、「買ったら何千円分だろう」と仰天した。初夏になると食べたくなるものの、小さい袋でも300円ぐらいはするためせいぜい豆ごはんを炊くぐらいのエンドウマメは、大きいレジ袋にいっぱい入れて宅配便で送ってくれた。もちろん自分が食べる分は確保し、近所にお裾分けもしたうえで。つまり、野菜を育てるのが上手いのだった。

 そのことを褒めたとき、ミヨ子は
「父ちゃんは田んぼとかスイカとか大がかりなものばかりに興味があったけど、野菜はあまり上手くなかった」
とさらりと言ったのでまたまた驚いた。この人は、じつはすごい才能があった(ある)のではないか。わたし(たち)がそれを知らなかっただけ、気付こうとしなかっただけではないか、と。

 自分らしく。
 自分がやりたいことをやろう。
 人が何と言おうと気にしない。

 そんな励ましの言葉が世の中に満ち満ちている。そのこと自体は尊いとは思う。一方で、ミヨ子の生き方は、ある意味その対極にある。ただただ、期待される役割という枠の中で、役割のままに生きてきたようにも見える。

 だが、自分を追及しない生き方は尊くないのだろうか。自分を主張しないことは自分を生きることにならないのだろうか。

 一見何も残してこなかったようなミヨ子、そしてミヨ子のような人たちの生き方を書いておくことで、ミヨ子たちの尊さのようなものについて考えたい。そのために書き続けたい、と改めて思う。
 
〈74〉勝鬘経義疏(611)序「則為二阿踰闍友称夫人一顕二三従之礼一」 〔和俗童子訓(1710)〕 〔儀礼‐喪服〕

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