文字を持たなかった昭和458 困難な時代(17)「生理の貧困」補足

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。高校生だった二三四(わたし)もその中にいたが、生理用品で不自由な思いをしたことはなかったため、前項では当時を振り返りつつ、昨今社会問題となっている「生理の貧困」について少し考察した。

 その最後を「いま困難な状況にある人びと、とくに女性が、二三四が貧しい中でも持てていたような希望を少しでも感じられますように。」と締めくくったのだが、いまひとつしっくりこないような、結論を逸らしてしまったような気がしていた。その後考えるともなく考えていてある思いに至った。

 この問題への意識は、「~~ますように」という対岸から気持ちだけを投げるようなものではなく、もっと切迫感というか何かを追究したい気持ちであることに気づいたのだ。

 追究の対象がなにか、誰かはうまく言えない。ただ、本来むしろ十分な配慮を受け優先的に保護されるべき月経期の女性たちが、その期間を不自由なく過ごすための用品――商品にもよるが1カ月に数百円の――すら買えない状況は、見過ごされていいはずがない、という思いなのだ。

 生理の貧困は生理という一面で見るから目立つのであって、つまるところ日本の貧困、とりわけ女性の貧困の問題だ。日本全体の経済的な体力がじりじりと落ちていき、非正規雇用の増加という当然の帰結を伴い、生活が不安定で必要最低限のものすら節約、あるいは諦めざるを得ない人々をたくさん生んだ。その一つが生理用品だ、ということだ。

 たんに幸運だったに過ぎないが、高度経済成長期は終わりを告げ、オイルショックも経験したとは言え、経済は右肩上がりが当たり前とまだ信じられていた時代、そしてその先にバブル経済の到来を待つ時期に、二三四は高校時代を過ごした。一家は農業経営の失敗で多額の負債を抱え、息が詰まるような生活を送ってはいたが、それでも生理用品を「節約」したことはなかった。周囲のどこからも、生理用品が買えないとか、節約しているといった話は聞こえてこなかった。節約できる対象になりえなかったからだし、そこまで「削る」ほど世間全体が困窮していなかったからだ。

 いま、外出先のトイレで無料の生理用品が置いてあるのを見かけることがある。生理用品の無償配布の活動もあるようだ。企業や団体などによる支援も始まっているし、個人でも寄付などの形で参加できる。目下困っている女性のために支援すること自体は尊い。二三四も、何か自分でもできることがないか考えている。

 でも、支援で解決していい問題なのだろうか。まして困っている人自身の努力に委ねる問題ではけっしてない。

 前項でも触れたとおり、衛生的な生理用品を適切に交換できない状況が長期に続けば、婦人科系の疾病に罹りかねない。下手すれば不妊につながる。政治は長らく「女性活躍」を謳い「少子化対策」に力を入れつつあるが、生理用品が満足に入手できない状況で、どう活躍しどう体を守れというのだろう。政治を含む国全体の問題が根っこにある。それこそを追究すべきなのだ。


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