最近のミヨ子さん 敬老の日2024(手紙に託すという意味。後編)
(前編より続く)
両親ともに健在だった頃、わたしから実家に宛てる手紙の対象は常に父親だった。宛先は両親なのだが、意識は父親に向いていた。「学のない」母親は、文章を読むことには興味がないと思い込んでいた。
しかし父親が他界しミヨ子さん(母)が一人暮らしになってから、当然ながら手紙はミヨ子さん宛てに出すことになった。どんな内容なら興味を持ってくれるのか探りながら、だんだんと長い手紙を出すようにもなった。ミヨ子さんが息子のカズアキさん(兄)一家と同居を始めてからも、たまにミヨ子さんにしか話せないことも認め、「緘」の文字で封緘した手紙を出し続けた。
しかしミヨ子さんの認知機能低下が進み、長い文章はもう理解できないかもしれない、と思ようになってからは、身近な話題の簡単な文章やメッセージに絞った。季節のカードのときもあった。それでも封書にすれば、開けるのはミヨ子さんで、少なくともいちばんに読むのはミヨ子さんだった(はずだ)。
施設に入所してからは、外の景色もあまり見ないだろうという思いもあり、送るのはもっぱら絵ハガキで、短いメッセージを添えている。文字をできるだけはっきり大きくすると、ハガキ表(おもて)面の下半分、あるいは左半分に書ける量はとても少なくて、わたしはいつも欲求不満だ。
今年の敬老の日のカードに書いたメッセージもそれほど長くはなかった。しかし、「この機会のために」と言葉をえらび、心をこめて書いた。そしてそれは、わたしからミヨ子さんへ届けたい、ミヨ子さんだけに向けたことばたちでもあった。
それを――息子(兄)夫婦とは言え――第三者にわかるように朗読されること、ときに第三者が代読することは、「通信の秘密」、「わたしと母親だけの間の秘密」への侵害だとわたしは感じた。せめて、「ここ(裏)に手紙が書いてあるから、あとで必ず読みなさいね」と言って、そっとしておいてほしかった。
ミヨ子さんはおそらくそんなことは気にかけていないだろう。息子の言うことはいちばん大事だし、もうそんなにいろいろなことを考えられる状態でもないだろう。わたし自身、とにかくその一瞬、その時どきで、ミヨ子さんが「おいしい」とか「うれしい」と思ってくれればそれでいいとも思っている。言葉を換えれば、ふつうの反応はもうあまり期待していない。してはいけないと抑制している。
でも、それを忘れて「お母さん、どうして?」と思ってしまう瞬間もある。こうしてあげたい、ああしてあげたい、と考えること自体、相手が母親だからだ。それも、若い母親だった頃に苦労を重ねた、同じ女性だからだ。
何が書いてあるかよくわからなくてもいいから、ミヨ子さんが生きているうちに伝えたい、報告したい、と思っていたこともじつはいくつかあった。しかし、施設で封書を開封して読むという行為は期待できないし、善意ではあっても開封した誰かに読まれたり、代読されたりされたくない内容だ。あくまで、「お母さんだけに」伝えたかったのだ。それはもう、かなわない。
だからせめて、折々のメッセージくらいは「お母さんだけに」読んでほしい。お母さんに向けて紡いでいる言葉なのだから。
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