文字を持たなかった昭和453 困難な時代(12)絶対服従
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり、しかも農村ならではのつきあいから交際費はかかること、結果、家計は八方ふさがりだったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。
そんな状況の中、夫の二夫(つぎお。父)はやる気をなくしてしまい、稲作など最少限の農作業はやるものの、釣りで気を紛らす(らしい)ことが増えた。
釣りに使うお金はミヨ子に無心する。ミヨ子は、もともと厳しい家計からなんとかやりくりしたお金の一部を、黙って渡す。そんなとき「もう手持ちはありません」とぴしゃりと言うのはもちろん、「今日はちょっと待って」などと婉曲に断ることさえ、ミヨ子はなかった。いつも、ちょっと困惑しながら――内心では本当に困っていた――、少額でもなんとか工面して渡すのだった。たとえば、決まった出費のために取り分けておいたお金から、少し抜き取るとか。でも結局その分は、どこかから融通しなければならないのだが。
「九州は男尊女卑だと思われているが、家庭では実際は女性のほうが実権を握っていて、男をいい気分にさせながら、手のひらの上で操っている」などと言われる。よく例えに出される博多の商家の「ごりょんさん」のように。鹿児島のお隣の熊本の女性も、ドキュメンタリーや報道を見ていると陽性で豪快、男性と互角にやりあっている雰囲気が伝わることが多い。
だが「わが」鹿児島はどうだろう。今でこそ女性も酒席に出るのはふつうだが、ミヨ子たちが子育てしていたころは、酒席を楽しむのは男性だけ、女性たちは料理と給仕要員で、合間をみてお勝手でそそくさと食事するのが当たり前だった。
ことにミヨ子たち夫婦の場合、男(夫や舅)に口答えはもちろん、提案すらできなかった。ただただ黙って「ついて行く」しかなかったのだ。ハウスキュウリの失敗は、その結果でもあった。そんな関係性について、ミヨ子はときどき溜息をつきながら
「父ちゃんには絶対服従だからね」
と言うことがあった。
しかし、服従させている相手にお金をねだるか? あれは搾取という構造か? 傍からはそう見えてもしかたがない。
ただミヨ子は、がまんを続けながらも「私が支えなければ」という一心だった。下手すると精神的DVである。でも、数十年経って振り返ってみると、そんな一方的な関係だったわけでもないのかも、とも娘の二三四(わたし)には思えてくる。