最近のミヨ子さん 介護施設入所後、その八
(その七より続く)
6月末、地元の介護施設に入所。直後新型コロナに感染、そのあと尿路感染、腎機能も低下して、鹿児島市立病院に運ばれたミヨ子さん(母)の入院は続いていた。
8月5日(月)カズアキさん(兄)がお見舞いに行ったとのことで、短い動画とメッセージが届いた。
わたしが辛うじて1回だけ行けた面会のとき(7月29日、「その五」)写真撮影は制止されたのだが、今回病院側は撮影を許可してくれたようだ。
動画の中でマスクを着けたミヨ子さんの顔が大写しになっている。表情はよくわからないが、直近の面会、つまりわたしが面会できた最初で最後の機会のときより、しっかりしているようにも見える。
動画からカズアキさんとの会話が聞こえてくる。
「ご飯はしっかり食べてる?」「あぁ……」「全部食べてるの?」「……食べてる」「おいしい? しっかり食べないとね」……といった、極めて短いものだ。声を出せるだけ前よりまし、という状態のようにも見える。
メッセージには「『(オレが)誰だかわかる?』と聞いたら、『佐賀から来られたの?』と言われた。会話はチグハグで成立しないけど、とりあえず食事は取れているようだ。退院(転院)は予定通り8日」とあった。
過去のnoteの記事に書いてきたように、佐賀はミヨ子さんが若かりし頃会社勤めをした場所だ〈270〉。ミヨ子さんの人生で、唯一親元を離れて暮らした場所でもある。志半ばにして結核を患い帰郷するのだが、同じ年ごろの女工さんたちと寮で暮らし、休みの日に映画を観たりした生活は、ミヨ子さんにとってまさに輝ける青春の1ページだったことだろう。
その「佐賀」がなぜこのタイミングで出てきたのかはわからない。夢の中で若返り、その思いのまま話していたのだろうか。
楽しかった佐賀なのに病気になり、帰郷後に嫁いだ先では厳しい舅・姑の下、農作業に明け暮れる生活に取り込まれていった――。もちろん、その中でカズアキさんやわたしが生まれるわけだが、ミヨ子さんの来し方を考えるとき「もう十分苦労してきたよね」と囁きたくなるのも事実だ。
ミヨ子さんと会えず――わざわざお見舞いに帰ったのに10分しか面会できず――、またぞろ様子がわからない状況に戻ってしまったいま。わたしはほんとうに、ミヨ子さんはもう半分神様の下にいるのだと思いたくなっている。
もう十分苦労してきたミヨ子さんに、病院や施設でもっとがんばって、と願うのが正しいことなのか。違うのではないか。――と思い始めているのだ。また会いたい、今度会ったらこうしてあげたい、と思うのは、子供の側のエゴではないのか、と自問している。
自問しながらも、大きな文字で簡単な文章を書き入れたヒマワリの絵ハガキを、ミヨ子さん宛てとしてカズアキさん宅へ速達で送った。入院後の面会ができるかわからないため、転院のタイミングでミヨ子さんに渡してほしくて、転院に間に合うように、である。(その九へ続く)
〈270〉ミヨ子さんの佐賀の紡績工場勤めについては「文字を持たなかった昭和 十九(終戦後)」に詳述。