文字を持たなかった昭和422 おしゃれ(18) 下着(ブラジャー)
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ、姉さんかぶり、農作業用帽子などのふだん着に続き、「毛糸」と呼んでいたニット製品の中でも印象的だった「チョッキ」とカーディガン、ブラウス、緑のスカートなど、よそ行きにしていた服について書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。
続いて下着について触れておくべく、前項ではシュミーズならぬシミーズについて書いた。ちゃんとした外出の際は、きれいな下着を着ける習慣がミヨ子にはあったことも。
そんな妙な?こだわりを持つミヨ子だったが、ブラジャーは着けなかった。というか、近隣のおばさん、お母さんはみんな着けていなかった。街(商業地区)のほうの専業主婦の奥さんたちは、もしかすると着けていたかもしれないが、田畑で体を動かし、汗だくになる農村の主婦たちにとって、ブラジャーは体をしめつけるようで面倒だっただろう。洗濯物も増える。外見を美しく見せるため下着で体型を整えるという考え方はもとよりなかったし、売っているところも近くにはなかった。
二三四(わたし)が小学校高学年になり、女子だけを集めた授業でベテランの女性教師から生理について説明を受けたとき、ブラジャーについても実物を示され「みんなもそろそろこんな下着をつけますよ」みたいな説明があった。
帰ってからミヨ子にブラジャーはしないのか、したことがないのかと訊くと、ミヨ子は
「ああ、バンド」
と区切ってから、(佐賀の紡績)工場に勤めていた20代半ば頃は、同僚も自分も着けていたこと、工場を辞めて帰ってきてからは着けていないことなどを話してくれた〈186〉。
「まだあると思うけど」
と、押入れの奥から探し出してくれたそれは、もとは白だったであろう色が少し黄ばんでいた。綿布製で幅が広く、形がかっちり決まっておりまったく伸縮しなかった。なるほど、これを着けて農作業は無理だな、と納得のいくものだった。
そして「バンド」とは「乳バンド」の略だと、ミヨ子は付け加えた。
夏場に大汗をかいて田んぼから帰宅し、モンペの上はシミーズだけになって急いで台所に立つとき、ミヨ子は
「バンドをしないから、『ちちんくっ(乳ん首)』がわかるけどねぇ」
とちょっとだけ恥ずかしそうにしていたが、ほかのおばさん、おかあさんたちも同じだから、家族の誰も気にしていなかった。
それに「バンド」をしなくても、ほかのお母さんたちよりミヨ子の胸はゆたかで、それは二三四にとって秘かな自慢でもあった。
〈186〉紡績工場勤めは「十九(終戦後)」で、工場で結核を患い帰ることになった経緯は「二十一(夢半ば)」で述べた。