文字を持たなかった昭和 百八十四(稲刈り、その三)

 昭和30~40年代の稲刈りを再現しようとしている。鹿児島の農村の女性ミヨ子が、嫁いで出産し――生まれた子供の一人が二三四(わたし)だ――子供たちがまだ小さかった頃、農作業の機械化が進む前の時代のこと。

 稲刈りの準備だけで2回分書いた(「その一」「その二」)。重要な農作業は、準備にも時間がかかる、と言いたかった。そろそろ本題に入ろう。

 稲刈りは田植え〈121〉同様短期間に作業が集中するが、田んぼはあちこちに何枚もある。稲刈りの時期は一家総出のうえ、たいていは親戚や近所の人の手伝い*をもらった。

 とは言っても、近隣も親戚もほとんどが専業か兼業の農家である。稲刈りのタイミングがずれそうなお宅や、田んぼがあまり広くなく、比較的手が空いていそうな兼業農家の主婦など、一回に2~3人に頼んでいたように思う。もちろん、お願いした先が稲刈りするときは、こちらが手伝いに回るのだ。つまり、農作業も生活も、持ちつ持たれつの関係だった。

 稲穂が頭を垂れるほどに実った田んぼに着くと、夫の二夫(つぎお)が鎌を手に、まず手前の畦近くの稲を刈る。人が入る位置を決めるのだ。そこから少しずつ刈り広げていく。

 田んぼに下りたらめいめい鎌を持つ。腰には藁を縄で束ねて括りつけていた。子供であっても、小学校中学年くらいには鎌を使えるようになっていた。つまり、一人前には届かないまでも働き手だっだ。

 稲の一株を握り、横から――真横ではなくやや前方かもしれない――から鎌を入れる。「ザクッ」という音とともに、稲の茎が株から切り離される。それを数回続けてある程度の太さの束にしたら、腰につけた藁で束ねる。

 束ねた稲は、これまたいくつかの束をまとめて、田んぼに置いておく。ひと束ずつ置くのでは、あとで拾い上げるのに効率が悪いからだ。そして、延々と、その動作が繰り返される。

 こうやって書いていると、茎の一本一本がバラバラになってもおかしくない稲の株を、株単位でなくいくつかまとめてから束ねるのは、子供の腕の長さと腕力では難しかったはずだと思うが、株ごとに束ねてはいなかった。

 田んぼの半分ほど稲を刈り進むと、二夫は稲架(はざ)を組み始める。稲架は、刈った稲を天日干しするために竹竿などを組んで作る、物干竿を長くつなげたようなものだ。稲架を組み上げると、刈ってまとめておいた稲束を稲架に架けていく。束ねた稲をV字型に開き、束ねた部分を上、穂先を下にして稲架に架けていくのだ。これは稲刈りが終わってから全員で集中して取組むほうが効率が上がったように思う。

 稲は稲架の端から順々に架けていく。間が空きすぎると組んでおいた稲架では長さが足りなくなるし、あまり密に架けると稲が乾きにくい。下手すると重みで稲架が崩れてしまう。このへんの配分は、二夫がいちばん知っていた。

〈121〉人の手で田植えをする様子は「田植え、その一」「その二」「その三、ヒル」「その四、ミヨ子」で述べた。
*鹿児島弁:かせ(加勢)。手伝ってもらう=かせをもろ(もらう)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?