文字を持たなかった昭和480 困難な時代(39)土木作業に出る④現場での苦労
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりな中、娘の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したこと、舅(祖父)が苦労して手に入れた田んぼを1枚は手放したこと、夫の二夫(つぎお。父)はついに土木作業に出る決断をしたことなどを述べた。
地下石油備蓄基地の建設という慣れない環境で一日肉体労働をして帰る夫のために、ミヨ子はさまざまに気を配り、沸かすのに時間がかかる薪の風呂も毎晩用意するようになったことは前項で触れた。実際労働環境は厳しいもののようだった。
二三四は帰省のときにその仕事について二夫から聞かされるくらいだったが、その範囲でも「大変だなぁ。よくその年でやっていけてるな」というのが正直な感想だった。
備蓄基地造成のためにまずトンネルを掘らなければならない。主要な作業自体は専用の機械で行うにしても、段取りや周辺の細かい作業は人力に頼る。けして衛生的ではないし危険も伴う。父親が断片的に語る様子から、二三四はいつぞや見た黒部ダムの建設工事の白黒映像を思い浮かべたものだ。
二夫が仕事場での話を家でどのくらいしていたかはわからないが、ミヨ子は聞かされても全体像を掴めなかっただろう。ただ「父ちゃんは毎日難儀してるんだから、家ではちょっとでもくつろいでもらわないと」と思ったはずだ。
二夫の話で印象的なのは、粉塵である。
「照明はあるが土埃でトンネルの中が暗くなる」
と言ったことを二三四は印象深く覚えている。当時でも労働者の保護や労働環境に関する法令、制度はある程度整っていたと思われるが、運用はどのていど徹底できていただろうか。現場で防塵マスクを着用する意識はさらに希薄だっただろう。
そんな環境で終日働いていれば、体になんらかの影響が及ぶのは当然のことだ。と、あとになって思うが、当時の二夫は、とにかく少しでもたくさん働いて、ハウスキュウリでこしらえた負債を返していかねば、という一心だっただろう。
「若い人はいやがる仕事でも率先してやっているらしい」
ミヨ子が二三四に言った。
「父ちゃんは正社員じゃないから、押し付けられることもあるらしいよ。若いもんが休憩しているときも仕事をしたりとかもあるらしい」
そんな話を夫から聞かされれば、妻としては自分が支えなければ、とより強く思っただろう。皮肉なことだが、二夫が疲れるほどに夫婦は以前のような縦の関係から横の支えあう関係に変わっていったのかもしれない。
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