文字を持たなかった明治―吉太郎66 名実ともに一国一城の主
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校のみならず上級の農芸学校へ進んだ。昭和19(1944)年、あと1年足らずで農芸学校を卒業するはずの二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に自ら志願した。吉太郎夫婦はもちろん受け入れがたかったが、なかったことにできる類の話でもなく、秋ごろに二夫は入隊して行った。吉太郎たちは働き手が減った分をなんとか補いながら、日々の農作業に精を出すしかなかった。
昭和20年の初夏、戦局は吉太郎のような下々の目にも明らかによくなさそうに思えるほどになっていた。様々な統制は厳しくなる一方だし、何より空襲の回数が増えた。吉太郎が住む農村には直接の被害はほとんどなかったが、鹿児島市をはじめ大きな街が空襲されたという話が頻繁に聞かれるようになった。
そんな落ち着かない日々の中、なぜそのタイミングで? と思われることが起きている。
昭和20年5月29日、吉太郎は生まれ育った家から「分家」する。吉太郎の物語は、明治以降に編製された戸籍を古いほうから順に(便宜上の呼称として【戸籍一】から【戸籍四】まで)を辿りながら、これまで吉太郎の生家と吉太郎自身の変遷を追ってきた。
晩婚の吉太郎は還暦を超えるまで、10人以上が名を連ねる生家の戸籍の一員であった。「51 戸主の変更」で述べた通り、家督は吉太郎の兄(きょうだいでは三男)である庄太郎からその長男・藤一が相続していたから、一家の戸籍において吉太郎は「叔父」と記載されていた。妻のハルは「叔父妻」、二夫は「従弟」である。もちろん、本家とは住む家も生計もとっくに別であったにもかかわらず、だ。
それがなぜか戦時中のこの時期に、戸籍を分離しているのである。
【戸籍四】の叔父・吉太郎の欄には、「日置郡市来町大里〇〇〇〇番地ニ分家届出 昭和貳拾年五月貳拾九日受附除籍」とある。叔父妻・ハルは「昭和貳拾年五月貳拾九日 夫吉太郎分家ニ付キ共ニ除籍」、従弟・二夫は「昭和貳拾年五月貳拾九日 父夫吉太郎分家ニ付キ共ニ除籍」と記載されている。
そして新しい戸籍――便宜上【戸籍五】とする――には、ハルとの婚姻届出の記載に続き、「日置郡市来町大里〇〇〇〇番地 戸主松島藤一 叔父分家届出 昭和貳拾年五月貳拾九日受附」と記載された。戸籍の構成員は、戸主・吉太郎、妻・ハル、長男・二夫の三人のみとなった。ちなみに生家と「分家」後の戸籍の所在地(番地、本項で〇〇〇〇とした個所)は、じつは同じである。本籍地はあくまで本家にある、という意味付けだろうか。
ともあれこれで、6人きょうだいの五男坊だった吉太郎は、ようやく名実ともに一国一城の主になった、とも言える。
言えるのだろうが、なぜこのタイミングなのか、もう確認しようがない。
あえて想像するならば、嫡男、すなわち一家の跡取りは徴兵の対象にならない(なりにくい)から、二夫が跡取りであることを戸籍上も明確にするために分家した、とも考えられる。
もっとも、当人の二夫はすでに入隊している。しかも自ら志願して。だから、徴兵を免れるために、という目的は現実としては果たせていないことにはなる。それでも、二夫が「徴兵されたわけではないから、帰してもらう」機会をうかがうための材料として、分家したのかもしれない。