文字を持たなかった昭和476 困難な時代(35)娘との関係
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、娘には高校卒業後地元で就職して家計を助けてほしいという両親の希望に反して、当の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したことなどを述べた。
家の中は夫婦ふたりになり支出は多少なりとも減った。とはいえ、稲作などひと通りの農作業をこなす繰り返しでは、ハウスキュウリでできた負債を返済する目途は立たない。どこかで大きな方向転換をすることが望まれた。
夫婦ふたりになった暮しにはあまり会話もなく、簡単な世間話以外は、夫の二夫(つぎお。父)が半ば指示することをミヨ子が了解、あるいは同意するというぐらいのものだったが、二人の子供たちのことはやはり常に関心ごとではあった。
長男で上の子のカズアキは20歳を越え、宿舎つきの職場で自立した生活を送っていたからいいとして、気がかりなのはやはり下の娘の二三四だ。「仕送りは受けない」と宣言し飲食店に住み込んで働きながら大学に通っている。体は続いているか、職場では大事にされているか、大学にはちゃんと通っているか――心配は尽きない。
喧嘩別れのように家を出た娘だったが、二夫たちは折りに触れて勤め先に季節の果物や地元の特産などを小包に仕立てて送った。二夫が几帳面な文字で近況を綴った分厚い手紙が添えられ、
「送ったものは店の人にもあげなさい。店長さんにはくれぐれもよろしく」
とあった。ときには店長さん宛の手紙も入っていた。それを読んだ店長さんから
「お父さんは達筆で礼儀正しいね」
と言われるたびに、二三四は恐縮するような誇らしいような気分になった。
一方のミヨ子は手紙の類は書かない。というより何かを読んだり書いたりする習慣自体がなかった。子供の頃貧しくてあまり勉強しなかったせいもある〈204〉。しかし送られたものには、ミヨ子が作ったり選んで入れたりしたと一目でわかる品が必ず入っており、まれにその脇に短いメモが添えられていた。
「店の電話を使っていいからお礼の電話をしなさい」
と店長さんから言われることもあり、二三四は電話をかけたり、近況を添えた手紙を書いたりした。こうして進学問題でこじれた家族関係は、距離を置くなかで少しずつほぐれていった。
もっともそのスピードは極めてゆっくりで、二夫と二三四がわだかまりなく話せるようになるにはまだまだ長い年月が必要だった。家族が安心して暮し行き来するうえで、債務の存在がやはり暗い影を落としていたからだ。
〈204〉ミヨ子の勉強どころでなかった幼少期については「十三(学校)」などで述べた。