つぶやき 令和の米騒動と台湾米(農水省)
昨(2024)年のいわゆる「令和の米騒動」について述べた(台湾米、米騒動)。コメ不足が騒がれた当時農林水産省が「新米が出回るようになったら供給量も価格も安定するので、買い占めはしないでほしい」とアナウンスしていたこと、新米が十分出回るようになっても価格は高止まりのままであることも。
今回農水省については備蓄米の放出を検討しなかった(検討したのかもしれないが結果的には前述のアナウンスに留まった)ことを含め、不信感を持った人も一定数いると思う。
ここnoteに繰り返し書いてきたようにわたしの実家は農家で、両親はじめ地域の農家の人たちが、国民のお腹を満たすために額に汗して働きながら、自身はけして裕福ではなく、貧困とまで言わなくてもつつましく暮らす姿を、子供の頃からたくさん見てきた。それゆえに将来農業に従事しようとは思わなかった部分がある一方で、農業に対しては国の根幹を支える産業としての誇りと敬意は持ったし、それはいまも続いている。
その農業の政策を決定する農林水産省にも、国策の基本としての大局観と一種の正義――日本の食を守るために、農業と農家を守る存在であること――を期待していた。というかそれらがあると信じて疑わなかった。
だが、ある時期から、農水省はたくさんある中央官庁のひとつで(しかなく)、官庁どうしの駆け引きのなかでよりよいポジションを得るために――予算をより多く獲得するために、かもしれない――立ちまわっているのではないか、という疑いを持つようになった。
それは、昨今の「日本の農水産品の輸出奨励」の流れを見ていて確信に変わりつつある。「日本ブランド」の農水産品の輸出は右肩上がりで増えており、それ自体は喜ばしいことだろうが、かんじんの国民が貧困と食べるものの不足に喘いでいる。自国民を十分に食べさせられずに、なんのための輸出か。と、思うのはわたしばかりではないだろう。
日本の食料自給率の低さ(令和5年度、カロリーベースで38%)は、長年問題視されながらなかなか上向かない。一方で多くをは輸入食材に頼る「よりおいしいもの」がもてはやされ、また一方で食品ロスに警鐘が鳴らされてもいる。なんかおかしくないか? 自国民が、少なくともある程度食べられる量を確保したうえでの「よりおいしいもの」「輸出の奨励」ではないのだろうか。
不信感が決定的になったのは「作況指数」のカラクリだ。毎年夏の終りぐらいからその年の米の出来具合が「作況指数」という数値で発表される。最終的にはお米の出荷が終わったあと、年末ぐらいに修正されたりもする。昨年の場合全国平均で「102(やや良)」、一般的な感覚で言えば「豊作ではないが十分な量が確保されたのだろう」というところだろう。
しかし作況指数は作柄の良否を表す指標で、農水省の定義によれば、平年 収量に対する10a当たり収量の比率である。つまり、全体(全国)の収穫量とはなんの関係もない。おまけに――周知のとおり――日本の米の作付け面積は減り(減らされ)続けている。作況指数がどんなに良好でも、作付面積が減れば総収穫量が減るのは当たり前なのだ。一方で、加工用や外食産業用として外国産米の輸入は増え続けている。
「コメだけは自給できている」と、政府(とメディア)は言ってこなかったか? しかしそのコメも、肥料や農機具を動かす燃料、農業資材などほとんどを輸入に頼っている。コメの完全自給は国民を欺くためのまやかしではなかったのだろうか。
もちろん多くの農水官僚は優秀で、まじめに仕事をしているだろう。でもその方向は国民が望む、期待する方向なのか。わたしは懐疑的に見ている。(「自給率」へ続く)
《食料自給率参考》農林水産省>日本の食料自給率
《作況指数主な参考》農林水産省>近畿農政局>「用語の解説」