文字を持たなかった昭和522 遺跡調査(4)その遺跡の名は――
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
しばらくは老境に入ってからのミヨ子について思いつくままに述べてみることにして、遺跡調査について書き始めた。地元で発見された遺跡の発掘作業に、ミヨ子がほんの一時期だが携わったこと、ミヨ子は遺跡や歴史に興味を持ってはおらず、娘の二三四(わたし)もほぼ同じだったこと、母親が遺跡発掘の「パート」に出ていたことを忘れていた二三四だが、ある時思いがけず地元の郷土資料館で見かけた遺跡発掘作業の展示に、ミヨ子の姿を発見したことなどを述べた。
展示によれば、発掘された遺跡には「瀧之段遺跡」という名称がつけられていた。平成5(1993)年、隣の市(当時)との境界にある山間地の整備事業を行う際に遺跡が発見され、事業をいったん中止して調査し、平成9(1997)年度に発掘作業を行ったのだという。
この地域は川上地区と呼ばれ、古代の貝塚や中世の山城があったことは、地元の子供たち――かつての二三四を含む――は学校で習ったり、大人から聞かされたりする。ただ、ミヨ子たちが住む集落からはかなり離れているうえ、そもそも山間部にある。そのため、小学校だけはこの地域に別に1校設けてあるほどだ。そんな環境だから、逆に言えばあまり人(開発ともいう)の手が入っていない。県の事業である山間整備がなければ、この遺跡の発見はもっと遅れたか、そのまま地中深く眠ったままだったかもしれない。
ざっくり言うと遺跡は縄文時代草創期から早期(一部前期)のもので、土器、石鏃、細石刃、石器などが2500点ほど、遺構も1基出土している。時代によって居住地を変遷しながら生活したあとが見られるが、この時代は移動式の生活から狩猟採集による定住へと向かう時期とされ、土器の使用(発掘)が定住を裏付けているらしい。とくに石鏃の出現においては「南九州の先進性がうかがえる遺跡」である、とのことだ。
伝聞ばかりのようで恐縮だが、二三四はなにぶん古代史や考古学には疎い。史料展示ぐらいならまだしも報告書を読むのは骨が折れる。
それでも、本項を書くために郷土資料館の展示内容をもとに地元の教育委員会がまとめた報告書をインターネットで探し出して、拾い読みしていた二三四だが、最後のほうを読んでいてはたと困惑した。