つぶやき『炎上CMでよみとくジェンダー論』より
「昭和」「地方」「女性史」といったキーワードを軸にnoteに書き続けている。これらから外れるようで、じつは繋がっているのでは、と思ったことを書いておきたい。
タイトルの著書『炎上CMで読み解くジェンダー論』(瀬地山角著、光文社新書、2020年5月30日初版1刷)を、図書館で借りて読み始めた。前に見かけたとき迷って、結局借りなかった1冊だ。理由は、大上段からジェンダー論を語(られ)ることは苦手だから。でも今回は思い直して読んでみることにした。
読み始めたところで、わたしが書いていることとの関連性を感じた。具体的には次項に譲る。今日は、「あれ?」と思った箇所について書いておく。
「序章 なぜCMは炎上するのか」で、作者は2012年に味の素が制作・放映したCMを詳細に描写し、そのどこがジェンダー意識に欠けるのかを解説している。CM自体やCMに投影された企業の意識、それを受け入れている日本(人)の意識などについては本書に譲る。もちろん、それらをどう受け止めるかも、個々の感じ方次第だろう。
わたしが興味深く感じたのは、同章「ごはんを作るのは「お母さん」なのか?」の一部だ。
ここでは、件(くだん)のCMの中で、流れる曲ではごはん作りを「何十億人ものお母さんが続けてきたこと」と歌い、画像では共働きで子育て中の女性(お母さん)の奮闘ぶりが表現される点を踏まえ、以下のように指摘している。
①日本では食事作りは圧倒的に女性が担うことが多かったが、必ずしも「お母さん」とは限らず、一部の男性も炊事をしていた。
②「何十億人」というが、多人口の中国においては男性の家事参加が進んでいる。都市部の子育て世代家庭の多くは共働きであり、両親は一人っ子第一世代。同第二世代である親たちは、どちらかの実家で食事することも多い。(つまり、食事作りは「お母さん」が担うとは限らない)
③中国の子育て世代の実家では、食事を作るのはおじいちゃんであることも多い。この世代は文化大革命の頃訓練されているので、自炊できる人も多い。(日本では団塊世代に相当)
④日本で専業主婦(ご飯を作るのは「お母さん)が定着するのは、高度成長期の団塊世代から。たかだか半世紀程度の歴史。
①と④については、本書で後述される内容を読み込んでいくとして、「あれ?」と思ったのは②と③についてだ。
わたしは大学生であった1980年代から中国(とくに首都北京)に関わり、留学こそしていないが、都合10年ほど現地で働きながら暮らした。外国人と中国人の仕事、そして給与水準、ひいては生活水準に大きな差があった時代が中心ではあるが、いろいろな人と接触したし、現地の友人も多く、濃淡とりまぜてさまざまなつきあいをしてきた。個人の家庭に呼ばれたことも数知れず、中には家族同然のつきあいもあった。
もちろん、北京での経験が中心で、現地の人でも外国人との接点を持つ層は限られる。それでも、一般の駐在員は入り込めない(入り込まない)部分にも、多少なりとも分け入ったという自負はある。
たしかに、中国の都市部の家庭はほぼ例外なく共働きで、男性が家事を負担するのは普通のことだ。もちろん料理がうまく、食材の買い物からてきぱきこなす男性も多数いる。一方で、料理は女性任せの男性も意外に多いし、家事は基本的に女性(ただし子供の送り迎えなどの育児には男性が積極的に関わる)という家庭もふつうに見られる。食事は職場が提供するという社会主義的システムの名残から、外食の機会が多く価格も比較的手頃なので、朝から外食という家庭も少なくない。
そもそも中国では、男女の賃金格差が比較的小さいこと、出産期や育児期も女性が働くことを前提として社会制度やインフラができていること(このため、ゼロ歳児でも問題なく預けられる、というより預けて職場復帰するのが当たり前)、むしろ専業主婦という発想や選択肢がほぼないこと、社会制度上の制限から長らく人口移動が少なく、とくに都市部のホワイトカラーは地方への転居は望まないことが殆どのため、結婚しても男女とも実家が近く、平日は祖父母に子供を預け週末は実家に顔を出していっしょに過ごす、というライフスタイルが一般的であること――などなど、「制度」面での差が、家事負担における日中の差につながっている、というのがわたしの考えだ。
だが、これらの状況を以て、家事参加が「進んでいる」と表現できるのだろうか。
また、③にある「文革世代で訓練されたから(男性も)自炊できる」というのは、どうだろうか。そういう人もいるだろうが、文革の影響の受け方は家庭、個人の状況によって差があり、文革が自炊を含む自活を促した、という分析は、わたしは寡聞にして知らない。ただし、社会の混乱のために窮乏生活を強いられた人たちも多く、乏しい食材を工夫して料理した経験がある人は少なくない。
わたし自身は、社会主義的な平等・公平に魅力を感じたことが、中国と関わる動機のひとつだったので、中国と長く接触するにつれ、制度的男女平等とは裏腹の、人びとの意識に横たわる男性優位にあとになって驚いたことのほうが印象に残っている。ことに農村における男尊女卑、女性の人権軽視・無視は、ふつうの日本人からは考えられないだろう。
代表的な例を挙げれば、農村部においていわゆる「一人っ子政策」遂行と、農家の「跡取り(男児)」確保を並立するため、妊娠中あるいは出産後に女児を「間引く」、あるいは生まれた女児に戸籍を与えず、男児の出産や戸籍登録を優先する、という話は、日本でも知られているのではないだろうか。結果として、農村部を中心に男女の出生率が自然出産ではありえないほど、男児に偏っている、というのもよく取り上げられる話だ。
都市部であっても、就職において女子が差別される、職場でセクハラを受ける、といった話は日本と同じかそれ以上にある。都市部で働く女性が高収入を得、管理職や企業家として活躍する例は日本よりはるかに多いのも確かだが、前述したような社会システムの違いのほか、家政婦として地方出身の比較的学歴の低い女性を住み込みで雇う習慣と、雇えるだけの収入(賃金)格差がある、という一面も忘れてはならないだろう。
つまり、中国の家庭における家事分担と日本のそれとは、社会制度や歴史的背景、国内での経済格差などの前提条件が違い過ぎて、状況単純に比較できない、と思うのだ。もちろん、人の意識の違いも大きい。
もちろん作者は客観的なデータやフィールドワークから「中国の家庭では男性の家事参加が進んでいる」と分析されたのだろうし、本書の中で関係する記述に出会えるかもしれない。わたしも、そこであらたな認識を得られるかもしれないことを期待する。
ただ、「中国の家庭では男性の家事参加が進んでいる」という記述は、わたしがかなり長期間をかけて理解した中国の家庭(社会)事情と必ずしも一致しない、ということを述べておきたかった。