文字を持たなかった昭和 百九十(町民運動会②)

 昭和後半、鹿児島の小さな町の運動会は、漫然と当日を迎えるものではなかった。

 それぞれの公民館(集落)で、もっと大きい単位の地域で、運動会で勝ち上がるために練習に勤しんだ。

 リレーも、玉入れも、仕事や学校が終わった夜になってから、それぞれ集落の道路や公民館の庭で練習した。練習時間は、集落の数カ所にある掲示板の黒板に、分館長さんや青年団長さんがチョークで書き込んだ。朝夕有線ラジオから流れる町(ちょう)の広報のあと、集落限定の放送を流す際に分館長さんがお知らせすることもあった。

 練習時間には、リレーのバトンタッチのタイミングを繰り返した。玉入れは、どうやったら効率よくカゴに入れられるかを検証しつつ練習した。みんな楽しそうで、でもどこか真剣だったのは、やはり「負けたくない」という気持ちがあったからだと思う。

 運動が得意でない母ミヨ子はもっぱら留守番だったが、婦人会でダンスの練習を、と言われれば重い腰を上げざるを得なかった。

 個人競技も練習した。

 父の二夫(つぎお)は毎年のように、鹿児島弁で「金ん輪回し(かねんわまわし)」と呼ばれる競技に出場していた。ここでいう「金ん輪」(かねのわ)とは、自転車のリム、車輪のいちばん内側の金属でできた輪っかの部分だ。

 リムはその外側にタイヤのゴムチューブを嵌めこむので、輪っかの外周は凹んでいる。ここに、長さ50センチくらいの棒を当て、体の前のほうで輪っかを回しながら走るのだ。回す勢いが強すぎると輪っかが先に行ってしまうし、弱すぎると輪っかが倒れてしまう。どちらも失格だ。

 輪っかが適度な速さで安定して回るように、人から離れすぎず近すぎないように、方向を正確に変えられるように、などなど、「金ん輪回し」はなかなか難しかったはずだ。工学的センスと勘も、必要だったのかもしれない。

 二夫はどこかから借りてきたリムと添木(棒)を操りつつ、集落の道路でときどき練習していた。


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