文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 7) ふるさとの地名

 昭和5(1930)年生まれで介護施設入所中のミヨ子さん(母)の様子を見に帰省した際、数時間ながら外出させ郷里へ連れて行ったお話を書こうとしている。その準備(ふるさと再訪準備①)に続き、当日久しぶりに再会し、ミヨ子さんを車椅子からレンタカーに乗せたところまでを前項で述べた。車椅子は畳み立てた状態でトランクに搭載してある。

 ミヨ子さんが乗った助手席の後ろの席にわたしは座り、ミヨ子さんの耳元で話しかけた。
「お母さん、やっと会えたね。覚えてないと思うけど、入院して大変だったんだよ。ほんとうに会いたかった」
話しながらわたしは涙声になる。

 「最近のミヨ子さん 介護施設入所後」(その一二十)などで述べたが、ミヨ子さんは施設(グループホーム)入所直後に感染症のため緊急入院し、一時点滴だけで命をつないだときは骨と皮ばかりになっていたのだ。

 当のミヨ子さんは「じゃったとー?(そうだったの?)」とのんびりした答え。まあいいさ。

 ミヨ子さんに当日の予定を話す。ふるさとまで行くこと、昼ご飯もそこで食べること、家があった集落に行くこと、できればお墓参りもすることなどだ。ミヨ子さんがどのくらい理解しているかわからないが、本人に言わないまま連れ回すようなことはしたくない。

 続いて、わたしとツレは前日まで屋久島にいたことを話す。「屋久島には誰がいる?」と尋ねると「誰だったかね?」。「お母さんの妹がいるでしょ?」と促すと、ちょっと間があって「すみちゃん!」と正確な答えが出てきた。わたしの名前は忘れていたのに、とちょっと悔しい。

 カーナビの誘導は有料道路選択にしてある。やがて車は松元ICから南九州自動車道に入った。両側はほとんど山しか見えない。ミヨ子さんに通過する町々の景色を見せてあげたいが、今日は時間優先なのでしかたがない。

 出口を示す看板を見かけては、「いま〇〇の辺りを走ってるんだよ」とわたしは「実況中継」する。車は伊集院、東市来、美山と通り過ぎ、市来の看板が見えた。いよいよミヨ子さんの(わたしの、でもある)ふるさとへ着くのだ。

 市来ICから道なりに大きく旋回すると、その先は国道3号線だ。突き当たったところで右(南)へ折れると温泉で有名な湯之元方面、左(北)へ折れるとふるさとの方になる。車が左折して、地元ではいちばん大きい河川・大里川が右手に見えたとき、ミヨ子さんが言った。
「ここは島内(しまうち)だね」

 びっくりである。もちろん、地名が正確だったからだ。しかし、ここからもう少し北にある集落に住んでいたミヨ子さんが、島内の辺りにしばしば来ていただろうか。そう言えば親戚がいる、そう言えば昔農協の選果場があった、夫の二夫さん(つぎお。父)の軽トラで湯之元あたりへ行くのには、ここを必ず通る、それにしても………。「そうだよ、よく覚えてるね」と答えながらわたしは目まぐるし考える。

 後ろから覗いたミヨ子さんの横顔は「そんなの当たり前でしょ」とでも言いそうな表情だった。

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