最近のミヨ子さん 転院後(2)
(転院後(1)より続く)
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを、その後明治生まれのミヨ子さんの舅・吉太郎さん(祖父)の物語を綴っている。合間にミヨ子さんの近況などを挟みつつ。
昨(2024)年6月末に施設(グループホーム)に入所したミヨ子さんは年末近くに体調を崩し、鹿児島市立病院へ緊急搬送された。そのまま年を越し成人の日の連休直後、施設入所まで同居していた息子のカズアキさん(兄)宅近くの病院に転院した。
その後の様子は順次述べることにして、転院後の1回目のお見舞いにお嫁さん(義姉)と孫娘(姪)が行ったときの様子は「転院後(1)」として述べた。今回は(2)である。
1回目のお見舞いから数日後の平日、カズアキさんからメッセージと動画が届いた。マスクをつけたミヨ子さんは、1回目のお見舞いのときのようにベッドに横たわってはおらず、体を起こし、しかも腰掛けている感じだ。ダウンのベストを着てひざ掛けもかけており、病室ではなく面会室のような場所にも思える。車椅子に乗せられて移動したのだろうか。
「二三四(わたし)からの年賀状だよ」
動画の中で和明さんが声をかけている。ミヨ子さんの手には、年末にわたしが以前の施設宛てに送った年賀状がある。まさか施設で年明けできないなどとは想像もつかず、郵便局の「お願い」どおりに12月25日より前に投函したものだ。施設に送ったことはカズアキさんたちに伝えてあったので、受け取りに行ってくれたのだろう。
「なんて書いてるかな?」カズアキさんが尋ねる。ミヨ子さんは年賀状の文面をじっと見ている。いつもなら小さく呟きながら文章を追うのだが、マスクで口元が見えないのでどんな反応かわからない。マスクの下の口が少し咳き込む。何か言いたいが、声が出ないのだろうか。
「なんて書いてある?」せっかちのカズアキさん(わたしもだ)が急かし、「ほら、『また会いに行きますね』って書いてあるだろ」と、プリンター印刷した文面の脇に書き添えた部分を示す。ミヨ子さんは相変わらず少し咳き込んでいる。
動画はそこで切れ、カズアキさんのメッセーには「年賀状は病室に置いてきました」とあった。
年賀状では昨秋屋久島に行ったことに触れ、そのときの写真を載せてある。ミヨ子さんはその文面や写真の意味、書き添えた文面で伝えたかったことがわかったのだろうか。
体を起こしているせいか、1回目の面会の印象のような「いかにも病人」という印象はやや薄まった。が、実際はどうなのか、ふだんはどうなのかはもちろんわからない。何も知らされないと心配だし、断片的に情報をもらうとまた別の心配が募る。看護や介護を他者に委ねている多くの子供は同じような心情なのだろうが。
それでも、福祉タクシーの簡易ベッドに横たわった状態で転院したときよりは、「回復」してきているのは見て取れた。言葉は悪いが、人間らしさを取り戻した、というか。しかし、体力も認知機能も元どおりにはならないだろう。こうして、体調の変化――往々にして急変――と若干の回復とを繰り返しながら、長期的には衰えていくのだろうか。
と書いていて気がついた。これって、広い意味での老化と同じだ。そのスピードと具体的な現象がステージによって変わっていくってことだ。わたし(たち)はミヨ子さんから、この先どう生きていく(べきな)のかを学ばせてもらっている。