文字を持たなかった昭和 百三十三(ミヨ子の半生―昭和5~50年代半ば)
母ミヨ子の半生記のつもりで書き始めたものの、季節の話題から思い出したエピソードを挿入したり、わたし自身の時どきの所感などを交えているうちに、とっちらかってきた。ここらでミヨ子の半生を再度整理してみる。
再度、と書いたのは、以前にも昭和40年頃までの流れを書いたことがあるからだ(「七十四(ミヨ子の半生―昭和5~40年頃)」)。これに追加する形でまとめてみたい。
昭和5年 鹿児島で出生を届出(実際の生年は昭和4年)
12年 小学校入学(戦時中に名称が国民学校に変わる)
18年 国民学校初等科卒業、高等科入学
20年 国民学校高等科卒業、鹿児島市内の小学校の販売部に勤務、
空襲の激化に伴い退職
20年代前半 佐賀市・大和紡績に就職、5~6年働くも結核に罹患
28年頃 結核治療のため郷里へ戻り、入院療養
29年 土地持ちの農家の一人っ子・二夫(つぎお)と結婚
(舅・吉太郎、姑・ハル)
主業の稲作や蔬菜栽培の傍らで、ミカン山の開墾にも加わる
30年代初 開墾の過労からか、最初の子供(男児)を死産
35年 長男・和明を出産 ※「七十四」はここまで
37年 長女・二三四(わたし)を出産。家族は6人に。
40年 和明、幼稚園入園(当時は年長組のみ)
40年代初め頃 価格が下がったミカンに代え、
接ぎ木してポンカン栽培に切り替える。
その後経営にビニールハウス栽培のスイカを加える。
40年代前半 徐々に家電を導入(洗濯機、冷蔵庫…)
41年 和明、小学校入学
42年 二三四、幼稚園入園
(この年から年少クラスを設置、年長・年少の2年制へ)
44年 二三四、小学校入学
45年 舅・吉太郎、老衰で死去(92歳)。家族は5人に。
47年 和明、中学校入学。
48年頃 吉太郎が買った屋敷に一部アルミサッシなどを入れて
現代風に改装。
同じ頃二夫が普通免許取得、バンを購入。
50年 和明、高校入学。二三四、中学校入学。家族は実質4人に。
50年代初め頃 農協の指導により経営規模を拡大、
キュウリのハウス栽培を始める。
ハウス内での農薬使用が原因で、
のちにミヨ子は農薬アレルギーになる。
53年 和明高校卒業、鹿児島県内で就職。二三四、高校入学。
姑・ハル、老衰で死去(86歳)。家族は実質3人に。
56年 二三四高校卒業。
二夫、ミヨ子とも進学に反対したが、和明の進言で折れる。
これまでに書いてきたストーリーより、時系列として先回りした部分も多いが、だいたいこんなところだろうか。
ここに、すでに書いた出来事やエピソードなどのリンクも貼りたいし、世の中の主なできごとも併記した「年表」みたいなものもいずれ作りたいが、だいぶ先の話になるだろう。その作業の中で、ミヨ子について書き残しておきたいことも思い浮かぶかもしれない。
とりあえずはミヨ子のストーリーを引き続き書いていくつもりだ。
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