文字を持たなかった昭和 番外(幸運な時代)
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、名を残すことのない、自分について語る術も持たなかった庶民の暮らしぶりを綴っている。年の初め、昭和とくに戦後について考えたことがあるので書いておきたい。
令和6(2024)年の元日、石川県能登地方を中心に大きな地震が襲い、津波まで発生した。地震はまだ収まっておらず、本稿を書いている2日時点でむしろ範囲は広がっているようにも見える。新年を寿ぐ支度を調え、楽しくあるいは静かにお正月を迎えていたであろうわが家から避難した多くの方々、わが家そのものが被災された方々の心中、そして今後を思うと胸が痛む。
一方で、テレビのどのチャンネルも地震と津波に関する報道ばかりでいささかうんざりしたことも、正直な気持ちではある。お正月気分も味わいたい。
そこで以前の録画から、2019年4月NHK・BSプレミアムで放送された「皇后~思いは時を超えて~」を視た。お正月と皇室関連のコンテンツ(番組だが)の相性はいいし。と思うのは昭和の人間だからか。
「四代」とは明治から平成まで。それぞれの時代の皇后がどのような役割を果たされたかを、時代背景の解説や、研究者の説明、関係者の証言などとともに、そのお人柄やなさりようを描いている。
内容については省略するとして、最も印象に残ったのは、それぞれの時代とも大きな災害がいくつも発生していること。つまるところ日本列島(日本という国)は災害から逃れられないのだ。規模の大小はともかく、災害はこれからも続くだろう。能登の地震もある意味においてそのひとつに過ぎない。
神戸淡路や東日本の大震災のような災害はそうめったに起きない、だから「100年に一度」とか「激甚」という表現が冠されるのだ、という考え方もあるだろうが、その後も「激甚」とつく災害はいくつも続いている。
戦後の昭和期は稀有な時代だった、とときどき考える。ひらたく言うと、よその国の戦争のおかげで経済成長を果たし、よその国の防衛力に守られ、安逸と快楽を追求できた。お金があったから研究や開発などへの投資も可能だった。よく前回の大阪万博開催時の昭和45(1970)年頃が例えに出されるが、世界の安定と発展は保証され、日本はその中心にあり、国民の生活は安泰だと信じることができた。
それもこれも、被害が広範囲に渉るような大災害が比較的少なかったからだ。
そしてもうひとつは、互助や公共の精神、言い換えれば利己への抑制が効いていたからだ。これは、戦前以前の文化や制度の遺産でもあると、私は思っている(もちろん弊害もあるにせよ)。
日本の経済力はじりじりと後退を続け、災害に対応する財政的・人的資源の余力は小さくなった。文化的精神的な面で言えば、東日本大震災の美談だったような譲り合いは、これからあまり期待できなくなるだろう。戦後昭和期はさまざまな幸運が重なった稀有な時代だったという認識に立って、行政も経済も生き方も考え直さなければならない。ことに命令一下で共同体が団結して行動するようなことは、難しくなると考えたほうがいい。日本に住む人々の価値観は、すでに十分多様化し細分化されている。
暗い話を書いた。最後に皇室の話にもどる。能登半島の地震報道を見ながら、新年一般参賀は取りやめになるかもしれない、と思っていたが、やはり「能登半島地震の被害の状況等に鑑み、中止 」になった(宮内庁発表)。被災地、被災者の状況や、救援に関わる人たちの苦労を考えると、とても祝賀行事を行う場合ではない、ということだろう。皇室はこうして国民とともにある。