文字を持たなかった昭和327 スイカ栽培(36)竹の支柱

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初に始めたスイカ栽培については30回以上かけて述べ、解体した資材の後片付けまで書いた。スイカシリーズは次回でおしまいの予定でいる。

 スイカを作り終わったあとの広い畑には、野菜など別の作物を植えることはなく、植えたとしても一部分だけだった。稲作の作業の最盛期が近づいていたし、一時期ほどで手をかけてはいなかったがミカン山もまだ続けていたからだ。加えて、8月の頭には地域でもっとも重要なお祭りが控えており、二夫(つぎお。父)はその世話役だからというより自分が祭りそのものを好きだから、早くから準備に熱心に取り組んでいた、ということもある。

 スイカは二三四(わたし)が高校に上がる前くらいまで、その後も10年近く栽培を続けた。(1)から(35)に書いたような作業が、春から初夏まで毎年繰り返されたわけだ。

 その10年ほどの間に、使う資材も「進化」していった。いちばん変わったのはビニールハウスの支柱だった。当初支柱には、自分たちで屋敷周りなどから切り出した竹を割り、撓ませて使った。自然の竹で支えられたトンネルの屋根の高さは、一定ではなかった。

 やがて支柱には既製品の金属パイプが使われるようになった。軽いが高価なアルミニウムではなく、鉄だったと思う。角度をつけて曲げられたパイプを畝の両側から組み合わせると、三角屋根の、トンネルというより小型のビニールハウスができた。腰をかがめれば人が入ることも可能な高さになった。

 この頃からミヨ子たちが「ハウス」と呼ぶとき、スイカ用のビニールハウスを指すようになった。トンネルを作るのは、パイプの支柱を立てられない狭い区画ぐらいに限られた。

 パイプの支柱は丈夫で、何シーズンも繰り返し使える点では優れていたが、保管に場所を取った。やむを得ずビニールシートなどを雨よけにして屋外に置いておくのだが、どうしても錆が生じ、そこから劣化するのは避けられなかった。

 経費もかかった――はずだ。二三四たち子供は当然としてミヨ子にも、二夫から詳しい単価や必要な量は前もっては知らされず、
「農協の指導で今年からパイプを使うことになったから」
と事後通告があるだけで、あとから請求書がミヨ子に渡された――のだと思う。家長である二夫のやり方は、いつもそうだったから。

 農協が仕入れて農家に下ろす資材には、選択肢がほとんどなかった。農協が定価で販売したその収益が、農家を潤すこともなかった。いまなら、農業用資材もネットの価格ドットコムのようなサイトで比較できるだろうが、当時の農家は農協(をはじめとするお上)の言いなりだった。

 子供の二三四でもそんな「仕組み」にはなんとなく気づいており、釈然としないながらも、世の中はそうやって回っていることを学んでいくのだった。

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