文字を持たなかった明治―吉太郎98 牛歩
(「97 耕運機に乗る」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。
昭和30年代の初め、一人息子の二夫(つぎお。父)が主導し吉太郎一家は耕運機を購入した。倹約家の吉太郎自身は気乗りしなかったが、使ってみたらやはり便利で、作業や運搬の効率も上がった。
吉太郎の孫娘の二三四(わたし)は、これらの経緯を綴りながらふと考えた。
耕運機を買うまでは、実際のところどうやって物を運んだり、田畑を耕したりしていたのだろう?
二三四の中では漠然と、働き者で倹約家の吉太郎のことだから、ほとんどの作業を妻のハル(祖母)や二夫、ミヨ子(母)が嫁に来てかはミヨ子もいっしょに人力で行っていたのだろう、と考えていた。
しかし、吉太郎がこつこつと買い広げた田畑は、家族四人が人力で作業するにはかなりの広さだった。近所の主婦などの手伝いを借るにしても、だ。それに戦後の農地改革を経て、もともとは小作同然だった近隣の小農の家も、広さは別にして自前の土地を持つようになり、それまでは他家の手伝いで小銭を得ていた農家の主婦たちも、自分の家の田畑を優先するようになっていたはずだ。
とすると、吉太郎一家には耕作に使う家畜、つまり牛か馬がいたのではないか。
家畜のことに考えが及ばなかったのは、二三四が物心ついた時「うんまや」(馬屋、厩)と呼ぶ大きな納屋には、家畜がいなかったせいである。二三四が小学校の高学年に上がる頃に肉牛となる牛を一頭飼い始めるのだが、それまで家畜らしい家畜はいなかったのだ。
考えれば、二三四が物心ついたときにはすでに耕運機があった。耕作はそれが家畜に取って代わっていたことだろう。
それでもうっすらと、田植前の代掻き(土をならす作業)に馬鍬(モーガ)を使っていた記憶がある。多くの農作業に共通するが、田植えの時期は集中するから人手を借りるのは大変だ。とてもではないが、何枚もある田んぼの代掻きを家族の手だけで間に合わせるのは難しかったはずだ。
そう言えば。昨年晩冬の帰省の際ミヨ子と昔語りをしていて、牛が写っている昔の写真を見ながら話したことがあった。その際ミヨ子はこう言ったのだ。(文字を持たなかった昭和 帰省余話20~牛)
「牛を川に連れて行って洗ってやるものだったけど、じいちゃん(舅である吉太郎さんのこと)は小柄だったから、牛を水に入れるのを怖がってねえ」
そうだ。昭和40年代前半の二三四の幼少時牛はいなかったのだが、それよりもっと前、昭和30年代半ば頃までは牛を飼っていたのだ。当然牛は重宝されていたことだろう。
農作業や運搬で耕運機が定着し、完全に牛に取って代わったのがいつだったのかは確かめようもない。それまでは、牛歩のペースで作業は進んでいたことだろう。それは人間にとっても自然なことだった。
しかし、機械化が進むにつれ、人間の生活リズムも機械に急かされるようになった。それはいいことだったのか。吉太郎だったらなんと言っただろう。