文字を持たなかった昭和372 ハウスキュウリ(21)事故
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げ、苗の植えつけ、手入れ、収穫、ハウスキュウリ時代の最も残念な事態である収穫が間に合わなくなってきた状況なども書いた。そんな中、姑のハル(祖母)が亡くなったことを前項で述べた。
ハウスキュウリに取り組んでいた時期、ミヨ子たちにとっては不本意なことがいくつか起きた。両親とも高齢になってから生まれ、当時では珍しい一人っ子だった二夫(つぎお。父)にとって、母親が亡くなったことのダメージが大きかった。ふつうに考えれば十分に天寿を全うした年齢だったのだが、その時期を考えると、ハウスキュウリとの因縁を思わなくもない。
ハウスキュウリは2年は続けたと思う。その間に、二夫がビニールハウスの上から転落する事故があった。「構造」で述べたように、ハウス内の温度調節のためには、ハウスの屋根の部分のビニールを開閉する仕組みになっていた。温度を上げるのにはハウス内に導入した重油を焚く暖房機を使うわけだが、それだけに頼るわけではないし、むしろ節約のためにはハウスの屋根を適時閉める必要があった。逆に、温度が上がり過ぎないようにするには屋根を開ける。そしてその作業は、二夫がほぼ一人で担っていた。
「そのとき」の状況を、二三四(わたし)は見たわけではない。ビニールハウスにいたミヨ子から聞かされたのだが、ミヨ子もその場にいたのかどうかはわからない。
ざっと言えば、屋根から下りようとしてバランスを崩し、脚に大ケガをした、というもの。
ビニールを開閉するのに通路代わりにしていた屋根の低い部分は、2メートルくらいの高さがあった。足場にする用水路の囲いの部分の高さを差し引いても2メートル近かった。その用水路の囲いのコンクリート部分に足を打ち付けた、のだったと記憶する。
二三四は昔から血が出る話は苦手で、事故の詳細を自分から聞きこむ気にはなれなかった。そして、ケガのあとの二夫の状態――包帯を巻いていた姿など――や、回復するまでの農作業の様子についても思い出せない。
あるいは、意外と軽傷だったのかもしれないし、昭和一桁生まれの男らしく弱音を吐かない二夫が「たいしたことない」と強がって、ふだんどおりに農作業をしていたのかもしれない。あるいは、あるていど回復するまでは、近所や農協の人に手伝ってもらえたのかもしれない。
いまだったら、ビニールハウスの手が届かない部分の開閉は、自動化か、手動にしても用具を使って半自動にするだろう。人がいちいち屋根の上に登って開閉するなんて、労働者保護の観点から論外だ。当時は作業者の安全確保という概念がほとんどなかったのだろうが、50歳を超えた経営者にそのやり方を勧めた農協に責任はないのか。
かなりの作業が機械化された現在でも、農作業中の事故やケガは思いのほか多い。行政や農業団体も対策をより考えるべきだと思うが、経営者自身もその意識を持たなければならないだろう。その意味では、二夫が安全管理に十分気をつけていたのかは、なんとも言えない。
もし気をつけていたとしても、四六時中意識することは不可能だし、経営が順調でない中、つい考えごとをしてしまうこともあったはずだ。事故は起こるべくして起きたのかもしれない。