文字を持たなかった昭和 百六十六(十五夜の相撲大会)
昭和40(~50)年代、母ミヨ子が現役主婦だった頃の十五夜の習慣とおまけを書いたが、どちも家庭内の話。
外――鹿児島県西部の農村の集落――に目を向ければ、十五夜に必ず行う行事があった。それは相撲大会である。
毎年十五夜の夜には、子供たちを中心に集落の集会所に集まり、相撲大会を催していた。集落ごとにある集会所は当時「公民館」と呼ばれていたが、もっと前は「青年舎」と呼んでいた。集落の青年団がしばしば集い、活動する拠点だったからだろう。もちろん青年団以外の集会――集落の寄り合いや、町や農協の指導事項を伝達するための会議など――にも使われた。いつ頃から「公民館」のほうが正式な名称になったのかは定かではないが。
ミヨ子たちの集落の公民館は20畳ほどの畳敷きの平屋で、上がり框の横に小さな板の間と簡単な台所があり、裏手にトイレがあった(もちろん汲み取り式だ)。そして、国道に面したちんまりした庭も。相撲大会は、この庭で行われていた。
十五夜の晩、夕食前くらいの時間帯だろうか、幼稚園生から小学生たちは全員ここに集まった。大人のほうは、「分館長」と呼ばれていた集落のリーダー(これは持ち回りである)、その他世話役が数人。時間がある大人や中学生以上の子供が見物に来ることもあった。
ミヨ子のような主婦たちは、十五夜のお供えの仕上げや晩ご飯の支度で忙しいので、「お母さん」たちが見に来ることはほとんどなかった。
相撲大会にはこれといったしつらえはない。庭に棒きれで丸い土俵が描かれて、子供たちは年が下の子どうしから順番に相撲を取る。勝った子は年(学年)が上の子と対戦する。たいていは年上の子が勝つのだが、年下の子が勝ち上がることもある。それでも学年が2つも上になると体格がまったく違うので、小さい子がずっと勝ち上がることはなかった。同じ学年に複数の子供がいる場合は、同学年の中の女子や体格が小さめの子が先に出てきた。昭和40年代、20~30戸程度の小さな集落でも、同じ学年に3、4人の同学年生がいることもあるくらい、子供の数はそこそこいた。
相撲の対戦に男女の区別はない。女子も男子と同じように組まされる。一般的に、小学校高学年頃には女子のほうが男子より先に大きくなるので、女子が「優勝」することもあった。
相撲大会に参加した子供には、分館長さんからお菓子や鉛筆などのご褒美が配られた。優勝者にはさらに特別なご褒美があった。ご褒美の「原資」は、集落が日頃集めている会費や、有志が臨時に届けたお祝い金だったと想像する。
二三四は身長でいうと真中よりやや前寄りと比較的小柄だったが、小太りというか、体格はしっかりしており力もあった。同年齢の他の女子同様、小学校高学年になると背が伸びて、同じ集落の同学年の男子より大きかった。それもあって、小五と小六の相撲大会では優勝した。
もっとも、小さな集落の限定された「戦い」の中で勝つことはそれほど名誉とは思えず、見物の大人たち――ほぼ全員男――は「二三四は強いね!」と言いながらも、心の中で多かれ少なかれ「女のくせに」と思っているであろうことは、その年ごろの二三四には容易に想像がつき、複雑な気持ちで家路につくのだった。
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