文字を持たなかった明治―吉太郎95 初孫③

より続く)
 昭和30(1955)年頃。明治生まれの吉太郎(祖父)一家がミカン栽培を始めるため、山林の開墾に勤しむ中、嫁のミヨ子(母)は最初の子を身ごもった。ミヨ子には軽い作業をあてがい、吉太郎たちとしてはそれなりに体を大事にしてやったつもりでいた。

 ミヨ子の実家は同じ集落にあった。臨月のミヨ子は何の用事か実家を訪ねていたときに、破水した。本人はおしっこを漏らしたと思い、側にいた母親のハツノ(母方の祖母)にそう言ったが、10人近い子供を産んだハツノは破水に違いないとすぐに気づき、産婆さんを呼びに走った。そしてミヨ子はお産に臨むのであるが――。

 その日の様子は、ミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「四十二(破水)」「四十三(難産)」で述べた。

 破水したあとの母胎の状態を、地域の女性たちは「空子」(からご)と呼んだ。本来羊膜ごと産まれてくるはずが、破水により羊水が流れ出てしまい、胎児を守るものがなくなった状態だ。胎児は水分がなくカラカラの産道を通ってくる、というイメージであろう。

 そのイメージどおり、ミヨ子のお産は難産だった。お産婆さんが「いきめ、いきめ」と励まし、ミヨ子がそれに応えようとしても、赤ん坊はなかなか出て来なかった。

 なんとか産まれ出てきた赤ん坊を見て、産婆さんは「男の子だよ!」と叫んだ。

 しかし、赤ん坊は泣き声を上げることはなかった。長時間のお産で、体力を使い果たしたのだ。あるいは産道を抜ける途中で息ができなくなったのかもしれなかった。昭和33(1958)年3月27日のことである(四十四 初めての子供)。

 妻のハル(祖母)は、難産で精魂尽き果てそうな嫁を労わるどころか、「せっかくの男の子を死なせて」となじった。

 吉太郎は落胆した。ミヨ子を直接なじることはなかったが、正直な気持ちとしてはハルと同じだった。せっかく嫁をもらい、開墾も始まり、子供もできて、これからどんどん家が栄えていくはずだと期待に胸を膨らませていたところだったのに。

 悲しみと落胆の中でささやかな葬儀が行われた。「生まれたときにはもう死んでいたから」という理由で出生届は出さなかったが「誠(まこと)」と名付けた。戒名ももらい、俗名と併せて位牌に書き、葬式を出したのだ。そのときの小さな位牌がなければ、この赤ん坊の存在は世の中に残らないことになったかもしれない。

 死産は返すがえすも残念ではあったが、吉太郎もハルも、もちろん子供の両親である二夫(つぎお。父)もミヨ子も、朝晩仏壇にお灯明を上げる度に、初孫になり得なかった赤ん坊を思い出した。

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