文字を持たなかった昭和 二百五十三(「年の晩」について)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが過ごした大晦日=年の晩 について書いた。

 大晦日を「年の晩」と呼んでいたことを思い出させてくれたのは、某新聞に掲載された民間の方のエッセイである。信州出身の72歳の女性によるもので、子供の頃――60年以上前だろうから1950年代だろうか――の大晦日から元旦の思い出が綴られていた。

 その中では、大晦日の夜は「お年取り」と呼んで一年でいちばんのごちそうを食べること、「年取り魚」が決まりで鮭か鰤だったこと(ほかに馬刺しなども)、昔は年齢を数えで数えたから正月(元日)がくるとひとつ年を取る計算で、家族全員(注:というか日本人全員)が同じように誕生日を迎えることになり、そのお祝いの意味があったと思われることなどが述べられている。

 一年の終わりにたまたまこれを読み、そうだ「年の晩」だった、とわたしも思い出したのだ。

 たしかに、祖父母の世代は数えで年齢を計算したし、両親世代も、少なくとも子供の頃はそれを踏襲していたはずだ。だから、正月や「年の晩」は、一年の区切りという以上の意味があったのだと改めて気づかされる。

 そんな「年の晩」に何を食べるか、はとても重要だっただろう。ミヨ子(母)たちは
「何で年を取ろうかね」(ないで としょ とろかい)
と語り合った。吉太郎が健在の頃は結論は出ていて、「二百五十二」に書いたとおり、魚料理ではあったが。

 その後子供(わたし)たちが大きくなり独立してから、年末や大晦日に一年の締めくくりの電話をかけたりすると、両親から
「何で年を取るの?(ないで としょ とっと?)」
つまり「大晦日のごちそうはなにを食べるのか」と聞かれたものだった。

 明治維新で、大東亜(太平洋)戦争の敗北で、いろいろなしきたりや考え方そのものがガラガラ変わり、いまはグローバルスタンダードという「美名」の前にそれが加速している。時の流れは変えようがないとして、当時(昔)はなぜそうだったのか、年の暮れに身近なことから考えてみるのも悪くないだろう。 

※(注:)はわたしの補足です。


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