文字を持たなかった昭和356 ハウスキュウリ(5)決定
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることにして、労働力の状況として当時の家族構成などを振り返ったあと、高校卒業を控えた長男の和明(兄)の地元での就職が決まらず、兼業的に家の農業を手伝う見通しが立たなくなるという「計算外」が生じたこととその補足を書いた。
前後するが、(1)で述べたようにハウスキュウリの「提案者はたぶんというより間違いなく農協だ」として、始めると決めたのはいつでどんな形だっただろう。
ハウス栽培のキュウリを売り出すとなると、当然露地ものが出回るより前に売らねばならず、冬から春に出荷する計算になる。となるとそれより前、遅くとも秋までには施設の準備を整えなければならなかったはずだが、そのあたり二三四(わたし)の記憶は曖昧だ。
ミカン、ポンカンのあとに始めたスイカは、その年、昭和52(1977)年の初夏まで続けたのか、それより前にいったん区切りをつけていたのだったか。いずれにしても、稲作はずっと続いていたし、ミヨ子を中心に季節の野菜も植えていた。
子供の印象としては「降ってわいた」ようにハウスキュウリを始めると知らされた。例えば家族会議のような場を設けて「これからこうする」と二夫(つぎお。父)が説明したわけではない。二夫から「こう決めたから」と告げられたミヨ子から、キュウリを始めると聞かされたのだと思う。
過去のミカンにせよ、ポンカンにせよ、スイカにせよ、ミヨ子が二夫から
「〇〇を始めたいんだが、お前はどう思う? やっていけそうか」
と聞かれたことは一度もなかった。新たな事業に限らず、なににつけ
「父ちゃんは何でも自分で決めて、『お前はこれをやれ』だったから」
といつもミヨ子はこぼしていたから。
もっともこぼすと言っても子供相手に愚痴るわけでもない。起きたことを淡々と述べているだけで、当然受け入れるべきものと決めている印象が常にあった。いまの感覚だと「自分」がないとも言えるが、戦後民主主義を受け入れたとは言っても、明治以前からの共同体を基盤にした生活が前提の農村にあって、家長制のもとで人生の基礎を作ってきた人々は――男も女も、老人も子供も――家長の権威と決定は絶対だったのだ。ことに、一代で家屋敷や田畑を買い広げたやり手爺さんが先代であったこの家では、家長そして男の権限は絶大だった。
このあたりは、同じ時代でも都市部はもちろん違うし、同じ地域でも職業によってかなり違うだろう。ひらたく言えば都市部のサラリーマン家庭では、ここまで家長が絶対ではなかったのではないか。同じ地域、同じ町内でも、勤め人の家庭はまだ風通しがよかった。農家でも、もう少し当たりの柔らかい男性はもちろんいた。