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文字を持たなかった昭和 百三十九(七夕踊り、その四)


 「その三」で「市来(いちき)の七夕踊り」の当日の流れと、祭りの世話役だったわたしの父・二夫(つぎお)の動きをなぞった。

 では母ミヨ子はその日はどう過ごしていたか?

 早朝夫の朝食を調え、身支度を手伝って送りだしたあとは、基本的に「お役御免」だった。上の男の子・和明は友だちと連れだって見物に出かけ、夕方まで帰ってこなかった。舅や姑が生きている間はその面倒を見るぐらいで家の中でのんびり過ごした。下の女の子・二三四は祭りを見に行きたがったので、午前か午後、あるいは両方、二三四を連れて見物に出かけることもあった。

 見物に行けばいろいろな屋台が出ている。子供たちにはめったに小遣いを与えなかったが、七夕のときは特別で、自由に使えるお金を少しばかり渡してあった。二三四は、うんと小さいころはアニメキャラクターのお面、ちょっと大きくなってからはビーズの財布などを買っていた。わたあめを買うこともあった。

 午前中の見物に出かけたときは、帰り路にある食堂でラーメンを食べたこともある。暑い最中の見物のあと冷房の効いた店内に入ると気持ちがよかったが、気分が高揚した二三四がラーメンのあとに頼んだかき氷は、二人で分けて食べていても、効きすぎた冷房のせいで身体がぞくぞくするほどだった。

 のんびりするために昼ごはんを家で食べることもあった。終日二夫がいないし、この日は多少ぜいたくしてもいいことにしていたから、自分たちが食べたい献立を決めた。トンカツを何枚も揚げたこともある。二三四は小学校中学年くらいには揚げ物もできたので、二人で台所に立ち、衣をつけたりしながらおしゃべりするのも楽しかった。

 夕方になったら、一日外にいて疲れたであろう二夫のために風呂をわかした。薪で焚く風呂は時間がかかったが、一年でいちばん暑い頃、浴槽に早めに水を張っておけばいつもより早く風呂が沸いたし、湯船で暖まる必要もなくぬるいお湯で行水すれば十分だった。もっとも二夫が戻るのは夜9時くらいだったので、子供たちや自分が先に行水をすませた。

 つまりは、七夕踊りの日は農作業からも夫の世話からも解放される、年に一度の休日のようなものだった。

 疲れてはいても上機嫌の二夫が帰ると「おやっとさあじゃした(お疲れ様でした)」*とねぎらって、ミヨ子の休日も終わるのだった。

*鹿児島弁「おやっとさあ」お疲れ様。バリエーションは「おやっとさあじゃした(お疲れ様でした)」「おやっとさあごわした(お疲れ様でした。男言葉)」など。

※写真は「七夕踊り」の行列に参加する張り子の動物のひとつ「牛」。牛追いの掛け声に合わせてお尻を高く挙げる「ぜーい」という動作をとっているところ。通常は張り子の中で数人が支え、周囲を十数人が持って牛を動かす(観客は操作に参加しない)。
最後の祭りとなる今年、感染予防もあって動物は陳列のみという予定だったらしいが、会場を移動するうちに動かしたくなったもよう。その気持ちはわかる気がする。

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