文字を持たなかった昭和 百六十九(秋の運動会、その後――特訓)

 昭和40年代前半の9月のとある日曜日、鹿児島の小さな町の小さな幼稚園の運動会が終わった。「百六十八(秋の運動会――かけっこの屈辱)」に、年少組の二三四(わたし)がかけっこでビリになったこと、屈辱を感じたのは二三四より兄の和明だったことを書いた。

「オレの妹がビリっけつなんて、恥ずかしい!」
と二三四に当たった当時小学2年生の和明は、ある決心をした。

 ランニングの特訓である。もちろん和明は特訓を施すほうで、特訓を受けるのは二三四だ。やり方はかなり荒っぽかった。

 運動会の代休が明けた火曜日。二三四の登園時間がきた。和明もいっしょに家を出た。

 幼稚園と小学校(中学校も)はほぼ隣り合っていたから、通学路と通園路はほぼ同じだ。田んぼを囲む集落の道を抜けたら、国道3号線を渡る。片側1車線の国道の交通量は、当時はまだ多くない。そのまま少し田んぼのあぜ道を歩くと、町内でいちばん大きな川の堤防に出る。堤防はほぼ直線で道幅は狭く車は通らなかった。当時(昭和40年代前半)、農作業のために堤防に車を走らせるほどのモータリゼーションは、この鹿児島の農村にはまだ届いていなかったのだ。

 その堤防に出たとき。通園バッグを肩から斜めがけして歩く二三四に和明が言った。
「二三四、今日からかけっこの練習だ。かばんは持ってやる。幼稚園まで走るんだ」

 二三四が大人だったら「青天の霹靂」という諺が浮かんだだろうが、ただびっくりするだけで、反論も反抗もできない。3学年も上、しかも男である兄は「絶対」だ。

 後ろからは和明が追いかけてくる。ただ追いかけるのではない、手にはそのへんに落ちていた棒きれを持っている。まるで馬か牛を追うみたいだ。でも二三四は文句を言えない。というより文句を言うという発想がない。

 幼稚園と小学校のほうへ曲る橋のたもとに来るまで1kmちょっと、堤防を走るこの特訓は、雨と休みの日以外は毎朝続いた 。

 いまなら幼児虐待扱いされない行動だが、3つ上の子供の行為でも虐待に当たるのだろうか? そして、母ミヨ子も父二夫(つぎお)もこの特訓には気付いていたが、妹を思うがゆえの兄心と理解したのか、「かわいそう」とか「やめろ」と言ったことは一度もない。これも、考えてみればすごいことだった。

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