文字を持たなかった昭和463 困難な時代(22)気づまりな日々
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがりで、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親が住み込みで働いて固定の収入を得るのはどうかと考えたあげく、いっそ離婚してしまえばと「提案」したりもしたが、いずれも現実にはあり得ず、同じような生活が繰り返されたことなどを述べた。
この時期の家庭内の雰囲気は、一言で言えば「最悪」だった。
夫の二夫(つぎお。父)は、いままでどおり農作業には出るものの――キュウリを失敗したので、経営の大きな柱はなくなり、稲作がいちばんの仕事になった――家ではむっつりと黙り込み、気晴らしに行く釣りの、仕掛け作りだけに精を出してい(るように見え)た。
ミヨ子は、そんな夫を腫れもののように扱った。もともと強固な男尊女卑の土地柄のうえ、家風としても女性に対して厳しかったが、それに輪をかけて「とにかく父ちゃんの機嫌を損ねないように」気を遣い、娘の二三四にもそれを求めた。
二夫が不在のとき母娘はほっとひと息つけた。農作業で不在なら、だいたい何時頃帰ってくるか見当がつく。帰宅に合わせて「心構え」するのがミヨ子と二三四の習慣になった。食事、とくに夕食どきに、世間話や学校でのできごとなどを「楽しく」雑談するのは、二夫の機嫌がよく、うまくリードできたときに限られた。二三四は、学校でのことなどは最低限の「報告」をするにとどめ、それもだんだん母親経由になっていった。
そんな日常だから、二夫が「寄り合い」などで食事時間にいないことがあると、ミヨ子も二三四も心からくつろげた。冬場なら、食後炬燵で横になりながら
「父ちゃんがいればこんなわけにいかないね」
と静かに笑い合った。
そうやってくつろいでいるとき、予想より早い時間に二夫の軽トラのエンジン音が響くこともあった。二人はあわてて炬燵を飛び出し、ミヨ子は台所で急ぐわけでもない用事にとりかかり、二三四は「勉強部屋」と呼んでいた子ども部屋に閉じこもって、勉強するふりをした。
車ならエンジン音が帰宅の合図になるので助かるが、飲み会を兼ねた集まりだと車で出かけるわけにはいかない。二夫らしい速足の足音が聞こえたか聞こえないかのうちに、ふいに玄関の引き戸が開いて慌てたことがある。それ以降、車ではない外出のときのくつろぎの時間は短めにするしておくのが対策となった。
こう書いていると、いかに一家の主に気を遣って生活していたか、改めて実感する。その支配下(?)での生活は、いまで言えばパワハラ、モラハラの被害に入りかねない。いまなら、ハラスメントを受けている当事者が、しばしば「自分ががまんすれば」「(ハラスメントしている側にも)いいところはある」と述べ、専門家が「それでは解決にならない、逃げることを考えなさい」とアドバイスするのをよく見聞きする。
ではあの時代、あの状況下で「逃げる」ことができただろうか。それは解決策になり得ただろうか。なんとか形を保っていた家の中で、家族の一角が崩れることは、すべてが崩れることを意味しただろう。つまるところ誰もそれを望まなかったのだし、なんとか支え合おうとしていたとも言える。