文字を持たなかった昭和361 ハウスキュウリ(10)植えつけ
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べており、労働力としての当時の家族構成や、長男の和明(兄)を働き手として当てにできなくなったこと、ビニールハウスの場所や規模、構造、そして設置の状況などを書いてきた。
ハウスの内部にはまっすぐな畝が何十も打たれた。キュウリは蔓を伸ばしながら成長するので、一定の間隔を空けて支柱も立てた。支柱より上に伸びようとする蔓のために、横方向にもワイヤーを張っていた気もする。スイカのトンネルのように腰をかがめて作業しなくてもよい点は、便利で先進的な印象も受けたが、その分大がかりでもあった。
畝を打ったり、支柱を立てたりする作業も、二夫(つぎお。父)を中心に、男手の手伝いをもらって進めたのだろう、二三四(わたし)はそのあたりの記憶もない。ビニールハウスを設置したときと同様、気がついたらキュウリの苗は植えつけられ少しずつ伸び始めていた。
苗は、やはりスイカのときのように、育ちやすいようカボチャかなにかに接いだ苗を、農協から購入したのだろう。あの広さに相応する量とは、いったい何百株だっただろう。ともかく、打った畝を埋める分の苗を植えたことだろう。
いや。キュウリの成長、つまり収穫のペースを考えたら、すべての畝で一度に苗を植えつけはしなかったはずだ。そのあたりの配分は、農協から「指導」があっただろう。手入れと収穫にかける労力の分配を考えて、ハウス全体をいくつかのスペースに区切って植えつけたのだと思う。
いろいろ書いていて、ふと思い出した。さすがにキュウリだけでは広すぎると思ったのか、別の何かを試しに植えてみたかったのか、ハウスの1棟分くらいは畑を空けてあったと思う。その部分までキュウリにしてしまうほど、キュウリの事業が順調になることはなかったのだが。