文字を持たなかった昭和 帰省余話23~戸籍

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとを「帰省余話」として書いてきた。(法要《URL367》、郷里のホテルに1泊しての温泉入浴《URL376》、なんでもおいしく食べる様子《URL380》、昔の写真をミヨ子さんに見せたときのこと《URL386》など)

 このところは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとを「帰省余話」として書いてきた。(法要、郷里のホテルに1泊しての温泉入浴なんでもおいしく食べる様子昔の写真をミヨ子さんに見せたときのことなど)

 この項の内容はミヨ子さんの話ではないものの関係がないわけでもなく、noteを書き始めた経緯にもつながるので、メモ代わりに書いておきたい。

 ミヨ子さんの出生届は生まれた翌年だったことなど、昔の戸籍管理はひらたく言えばいい加減だったようだ、と感じてきた。それでも、自分の身近な人、そして自分につながる関係性を確認しておきたくて、帰省の機会に両方の親の戸籍を、遡れるだけ遡ってみたいと思っていた。幸い、ミヨ子さんも夫の二夫さん(つぎお。父)も同じ集落で育っているので、郷里の町役場――市町村合併で市役所の支庁舎となったが――で両方とも辿れるはずだ、と。念のため、両親との関係性がわかるよう自分の戸籍謄本も事前に入手しておいた。

 わたしの場合、高校を出て郷里を離れるまで自分で役場へ行くことは皆無だったので、(旧)役場に足を踏み入れるのは、今回が初めてだった。小さな町だが、役場があるのは商業地域で、わが家があった農村部からは気軽に行ける距離ではなかった。そもそも役場での手続などの「公的なこと」は、もっぱら家長である二夫さんがやっていた。

 市民課の窓口で用件を伝え、申請方法を教えてもらう。親から上の世代で、ミヨ子さん以外の直系の関係者は亡くなっているので、除籍謄本を申請するのだ。父方の祖母も、同じ町で生まれて暮らしてきたので、父方の祖父・祖母、母方の祖父の3家系の除籍謄本の写しを発行してもらった。

 戸籍で遡れるのは明治までだ。戸主(現在の世帯主)が死亡したり、一族の誰かが「分家」したりして戸主が新しくなる度に戸籍が組み直されている。それもあって、3家系分の除籍謄本は13通、手数料は1万円近くに及んだ。まあ費用については覚悟してはいたが。

 それぞれの除籍謄本を、時間を遡りながら丹念に見て行くと、いろいろな発見があった。いちばん印象に残ったのは、明治の頃一族が一つの世帯で、兄弟姉妹はもちろん、兄弟の配偶者やその子供までひとつの世帯に入れてある点だった。(姉妹の場合、一般的に結婚すると他家の戸籍に入るので、姉妹の配偶者やその子供が世帯の成員になることは、まずなかったと思われる。)

 長男ではなかった吉太郎さん(父方の祖父)も、結婚後数年は「本家」の戸籍の成員のままで、その妻のハルさん(父方の祖母)はもちろん、二夫さんも「(戸主の)甥」という続柄で、本家の戸籍に記載されていた。

 生前の二夫さんの話には度々、おじ・おば、いとこやもっと遠い親戚に当たる人の話がたびたび出てきて「よく全部覚えてるなぁ」と感心すると同時に、「親戚とは言えよその家の人なのだから、そこまで細かく説明してくれなくても」と、それほど真剣に聞いていなかったのだが、二夫さんにとってそれらの人びとは、まさに「同じ家の家族」だったことを、戸籍を見て初めて実感したのだった。

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