文字を持たなかった明治―吉太郎27 息子の「入籍」

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 6人きょうだいだった吉太郎に家族が増えていく様子を追った(大家族①)あと、手元の除籍謄本のうち三番目に古いもの(便宜上【戸籍三】とする)を眺めつつ、引き続き吉太郎きょうだいの動向を見てきた。

 そして前項でようやく吉太郎自身の物語にたどり着いた。同じ地域の少し離れた集落から「婚姻」によりハル(祖母)が「弟妻」として入籍してきた、つまり妻を迎えたのだ。昭和3(1928)年3月、吉太郎は48歳になっており相当な「遅咲き」だ。

 ただし、前項でも触れたようにこの「婚姻」は結婚とイコールではなかったようで、ハルと同じ日にもう一人「入籍」してきた。謄本の戸主との続柄は「甥」、「父吉太郎 母ハル 長男」「出生 昭和参年参月弐拾日」とあるその人は「二夫(つぎお)」、二三四(わたし)の父である。

 つまり、婚姻届出のかなり前に吉太郎とハルは結婚し(おそらくきちんと祝言を挙げ)、子供を授かっていた。その子が生まれたタイミングで、婚姻と出生の届出をした――と、ふつうは考えられる。これまでも何回か述べているように、文字の読み書きが十分にできない庶民が多かった当時は、役所への届出は、何かのタイミングで誰かに頼むのが、普通に行われていたのだ。

 ただし二夫の場合、本当の出生は昭和2年だと伝わっている。つまり「子供が生まれたから届出をした」というわけでもないのだ。もっとも多産多死の時代、子供がちゃんと生きながらえそうかをある程度見極めてから出生を届け出る、ということも珍しくなかった〈238〉。

 吉太郎・ハル夫婦がほんとうはいつ祝言を挙げたのかは不明である。二夫が昭和2年生れというのが正しければ、大正の終りあたりに結婚した可能性が高いが、確認しようもない。

 ただここでひとつ大きな疑問が生じる。それは吉太郎が「再婚」だった、という事実があるからだ。それについては次で述べよう。

〈238〉ミヨ子自身も戸籍上の出生日と実際のそれが違うこと、当時そんなケースは珍しくなかったことは「ひと休み(戦前の出生届)」で述べた。


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