文字を持たなかった昭和326 スイカ栽培(35)資材の後片付け、続き

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について30回以上かけて述べてきたが、そろそろ終わり。前項では解体した資材の後片付けについて書いた。再利用が難しい大量のマルチ、劣化してしまったビニールシートやビニール紐などが、納屋や納屋の周辺にたまっていった。

 これらは当然処分しなければならい。

 プラスチックごみを資源として回収するごみ収集が始まるのはかなりあとのこと、たまったビニール類は自分たちで処理するしかない。もっとも当時資源ごみの収集があったとしても、汚れているし大量だしで、産廃として扱われることになったかもしれない。

 そもそも、この時代ミヨ子たちが暮らしていた地域ではごみ収集そのものがなかった。生活ごみのうち、野菜くずなどの食品ごみ、抜いた草や落ち葉などは、庭の隅や裏の林などに埋めておけば自然に堆肥になった。紙ごみや枯れ枝は風呂の焚きつけにすればよかった。

 ビニールやプラスチック類も使われてはいたが、便利ではあるが高価なものとして、安易に「捨てる」段階にはまだたどり着いてなかった。総じて、さしあたり不要だがまだ使えるものは「とっておく」か「誰かに譲る」のが普通で、ごみを行政に処理してもらう暮しには程遠かったのだ。

 そんな中で、自分たちで不要な資材を処理するとなると、いちばん簡単なのは「燃やす」ことだった。木や竹なら風呂の薪代わりになるが、プラスチック(ビニール)類となると別だ。プラスチックは燃焼するとき高温を発するし、燃え残りが溶けて風呂釜に貼りつくことがあり、「風呂釜を痛める」というのがミヨ子たちの共通認識だった。

 風呂で燃やせないため、単独で燃やす。専用のドラム缶を用意して庭の隅で燃やすのだが、石油製品特有の真っ黒い煙が上がり、独特の匂いがするうえ、気をつけないと熱風でめくれ上がったビニールが手に貼りついたりして危険でもあった。煙にも有害物質が含まれていたのではないだろうか。

 それでも、使用済みの石油製品系資材がたまっていけば処分しないわけにはいかない。

 もとはお金を出して買った資材を燃やしてしまうこと。その際に有害な物質が出ているかもしれないこと。それらをすべて個々の農家が背負わなければならない。二三四(わたし)は子供心になんとなく割り切れない思いを感じていた。

 そういった「事後の処理」を、促成栽培を指導した農協などはどう「指導」していたのだろう、といまとなっては思う。個々の農家に丸投げだったとしたら、あまりに無責任だろう。もっとも、環境保護やエコロジーといった概念が出てくるのはずいぶんあとで――公害はすでに十分問題視されていたが、工場の排水や排煙に起因するもの、というのが基本的な認識だった――、先進的な資材を使った先進的営農に向けて、国も農業団体も個々の農家も突っ走っていった時代だった。

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