文字を持たなかった昭和426 おしゃれ(22) ヘアスタイル

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「チョッキ」カーディガンブラウス緑のスカートなどよそ行きにしていた服、そして着物浴衣などについても書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 おしゃれについて語るとき髪も欠かせないだろう、というので前項ではミヨ子のヘアケアについて書いた。ではヘアスタイルはどうだったか。

 二三四(わたし)は、子供の頃の母親の髪型を思い浮かべるとき「ふつうだった」としか言いようがない。

 全体の長さは襟足ぐらいと比較的短めで、ゆるくパーマをあてていた。パーマは、当時近隣のおばさん、おかあさんはほとんどかけていた。パーマをかけない髪はすとんとしているので、姉さんかぶりの手拭いが落ちやすい、というのがミヨ子の解説だった。

 そう、農作業や家事のとき必ずといっていいほどかぶる手拭いだが、日本髪を結っていたならボリュームや凹凸があるので、手拭いが落ちることは少なかったのかもしれない。しかし動きやすさ、働きやすさ優先の生活様式が髪型にも及び、農村の女性たちは髪を伸ばして結うというスタイルから遠ざかっていった。ミヨ子もその一人だ。

 そして、高度経済成長に合わせて広がったパーマ、および美容院の恩恵を、農村の女性たちも受けた。もちろんミヨ子も。

 ただし、パーマをあてたあとのケアは十分とは言えなかった。パーマをあてた髪はカーラーで巻いてウェーブをキープすべきなのだが、寝る前にひとつひとつカーラーを巻くような悠長な時間も技術も、農村の主婦にはまだなかった。

 だから、近隣のおばさん、おかあさんの多くは、髪がちりちりと縮れていた。ミヨ子もパーマをあてた直後は髪がくるくるになっていたが、もともとねこっ毛のせいか、1カ月もするとほどよいウェーブになった。

 ゆるくウェーブがかかった髪を額の左側で分け、前髪が落ちないようにヘアピンで止める、というのがミヨ子の定番のヘアスタイルだった。

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