昭和の記憶 台風
2024年8月16日(金)、関東の東側を大型の台風7号が北上した。首都圏発着の新幹線や空・海の便をはじめ、さまざまな生活インフラはサービスを停止 あるいは縮小して対応した。お盆休みのあととあって帰省先や旅行先からの移動をこの週末に充てていた人も多かったようだが、台風が直撃した形だ。
わたしはと言えば、「不要不急の外出は控えて」という呼びかけに応じたわけでもないが、外に出なければならない仕事も用事もなくおとなしくしていた。東京湾の西岸部に近いこの地域は、ときおり風雨が強まったものの、がんばれば外出できるくらいの天気に終始した。もちろん外出したら飛来物がぶつかる可能性もあり、そうでなくても足元が悪くずぶ濡れになっただろう。
わたしは、隣のマンションの屋上庭園の樹木が――うちのマンションの、ではない――強い風雨にあおられる様や、雨の合間に夏蝶が果敢に飛ぶ姿を、鍵をしっかり掛けたサッシ窓越しに見ながら、子供の頃の台風の日を思い出していた。
郷里の鹿児島は毎年台風に襲われた。夏の後半から秋は、規模の大小は別にして、必ず台風がやってきて大雨を降らせた。強風の印象はあまり深くないが、台風が過ぎたあと、広い庭には折れた木の枝がたくさん落ちていた。
noteにさんざん書いてきたとおり実家は専業農家だった。気象、天候の変化は作物の出来に直結する。天気予報が「台風が来る」と告げれば、その進路や規模は家じゅうの関心事になった。と言っても、わたしが小学校低学年だった昭和40年代前半、気象現象や白黒テレビの天気図を(ほぼ)正確に理解しているのは父くらいで、母は父の解釈をそのまま受け止め、天気予報をあまり見ない祖父母は長年の経験から「この先」をだいたい予測した。
台風が来るのは稲がかなり成長している頃で、両親はまずは田んぼの手当てに出かけた。もう雨が降り、二人とも雨合羽を着て出たから、台風がかなり近づいてからのことだったと思う。当時の天気予報だと、直前まで台風の進路や規模がわからないか、外れることが多かったのか。この時点で子供が手伝えることはもう何もなかった。
風が強くなる頃には、やはり雨合羽を着た父が長めの釘と金づちを持ち、閉め切った雨戸の外から釘を打ったり、納屋の中二階の外に梯子を架けて、開閉式の窓に板を当てて補強したりした。父が家の中にいると畏まった雰囲気が醸成された。別の表現をすれば父は怖くもあり、鬱陶しくもあったわけだが、こういうときに頼りになるのはやはり父だった。
本格的に台風が近づくと、大正時代に建てた木造の家の中に籠るしかない。古い家だが柱や梁が太く、家がきしんだりした記憶はない。独身時代にお金を貯めてこの家を買った祖父に感謝すべきだったと今になって思う。家が大きく頑丈なので、台風が大型だと予報されれば、同じ集落に住む母方の祖父母や、母方の叔父一家――年の近いいとこが二人いた――が、わが家へ「避難」してくることもあり、ちょっとした合宿気分を味わえた。
そんなとき、ふいに停電になることがあった。強風で電線が切れたか、どこかの電柱が倒れたのだろう。一度停電になると翌朝明るくなるまで待つしかない。もちろんろうそくは用意してあった。台風の備えではなく、お仏壇で使うろうそくのうち、長時間灯が消えない太いものを、灯り取りに使ったのだ。ろうそくに火をつけるマッチもお仏壇にいつもあったが、台風が運ぶ湿った空気で点火しづらくなるのは困りものだった。
いずれにしても、ろうそくは日常の中にあり、ろうそくの灯りを囲んでぼそぼそ話をするのは、わるいものではなかった。
エアコンはもちろんなかったし、停電で扇風機も使えなくなると、窓を閉め切った室内は暑かったはずだが、不思議とその記憶はない。木造の家はどこかから隙間風が入ってきていたのだろうか。停電で困るのは部屋が暗いことぐらいだった。
そもそも照明以外の生活家電は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器ぐらい。テレビは、1日ぐらい見なくてもなんということはないし――当時はチャンネル数も少なく、午前零時から翌朝までは放送自体なかった――、冷蔵庫の氷が溶けることを除けば、生活に大きな支障はなかったはずだ。もし停電が長引けば、洗濯は井戸水を汲んで手ですればよかったし、台所の熱源はもうガスだったからご飯もおかずもガスコンロで作れた。万一ガスが切れても、風呂用の薪を使って、土間にしつらえた簡易カマドで煮炊きできるという程度の知恵は、小学生のわたしにもあった。
停電の翌朝空が明るくなり、風雨が弱まって「みんな」が自宅へ戻るときはなんとなく物足りない気分になった。同じ集落だからいつでも会えるのに、大人になってからの表現を使えば、困難なときを共にする仲間には特別な気持ちを持った、ということかもしれない。
翻って現在の生活を顧みると。本項を書いて(打って)いる自室は、いわゆるオール電化である。電気が供給されなくなれば、もちろん水は出ず小用ひとつ足せない。ある程度の備蓄――水やちょっとした食料だが――はしており、多少煮炊きができるように卓上ガスコンロとガスボンベの用意ぐらいはあるが。
しかし、そういった「知識」と、木造の家でろうそくを灯して台風をやり過ごした頃の「知恵」はまったく違うものだ。もしいまあんな環境に放り出されたら、どのくらいの割合の人が台風の一夜を過ごせるだろうか。わたしたちは、便利や快適と引き換えに、生き物として根源的に重要なものを失ってしまったのだと感じている。。
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