文字を持たなかった昭和290 ミカンからポンカンへ(12)ポンカンはどこから?②
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
昭和40年代初め頃ミカンの価格が下がったことを受け、わが家がポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにし、(1)から順に書いてきた。ついでに、そもそもポンカンという果物はどんな経路で日本(鹿児島)へ伝わったのかについて書いたのが、前項(11)である。
そこで、二夫(つぎお。父)が語っていた「まず屋久島で栽培されていた」という話と、(11)で述べた、日本の台湾統治時代の初代総督である樺山資紀(すけのり)海軍大将が、台湾から鹿児島へポンカンの苗木を送った、という史実との違いに疑問を感じたことに触れた。
だがこの疑問は、これまたインターネット情報であっさり解決したのである。
ポンカンの歴史についてネットで検索して出てきた情報のひとつに、JA鹿児島経済連のふるさと便、つまり農産品のネットショップのサイトがあった。その果物の紹介のページにこうあったのだ。
~屋久島ぽんかんとは?!~
世界遺産に登録されている屋久島で育ったぽんかんは、大粒で濃厚な美味しさが特徴です。酸味もあり、しっかりとした食べ応えがお楽しみいただけます。
屋久島ぽんかんの歴史は古く、黒葛原兼成(つづらばらかねなり)翁が大正13(1924)年に台湾よりぽんかんの苗を導入したことが始まりとされています。
「黒葛原兼成翁」とはこんな方のようだ。
・明治初頭の鹿児島市に生まれ、屋久島など各地で校長を歴任して台湾にも招かれた。
・明治38(1905)年屋久島に移住、100町歩余(1町歩は3000坪、約1ヘクタール。つまり100ヘクタール余)の開墾に取り組む。
・大正13(1924)年、台湾からポンカンの苗200本を導入。当初は新果樹に地元の抵抗もあったという。
・黒葛原翁は後に村議、県議、村長を務め農業など地域振興に尽力し、昭和28(1953)年には屋久島に頌徳碑が建てられた。
この黒葛原翁と鹿児島県垂水果樹試験場の連携によって栽培技術が育ち、新品種の開発も進み、屋久島ポンカンのブランドが確立した。台湾から移植されたポンカンは、島内・平内地区の黒葛原農園内にポンカン原木園として維持されており、毎年11月にはポンカン祭りが行われている(原木園は町の天然記念物に指定)――ということも、ネット情報で知った。
つまり、屋久島のポンカンは、樺山総督のルートとはまったく別に、農業振興に取り組んだ地元の名士が自力で導入したものだった。
黒葛原翁は県内で校長先生を歴任し台湾にも招かれたとあるから、台湾でも教職に就いていた可能性が高い〈147〉。当時の文献を本気で調べれば、どんな職位で台湾のどこに赴任したか、わかるかもしれない。時系列からすれば、当時の日本にはないおいしい果物を台湾で知り、内地へ戻ってから屋久島での開墾を本格化、台湾とのつながりを活用してポンカンの苗を導入した、ということだろう。
いずれにせよ、二つのルートの元はどちらも台湾。鹿児島(日本)のポンカンの、そもそものルーツ(原産地)はインドだとしても、曾祖父母くらいの近いご先祖は台湾と言ってよいだろう。まあそれも、日本の近代史とその時期の人やモノの往来を考えれば当たり前かもしれないが。
黒葛原翁が台湾からポンカンの苗を導入してから、来年でちょうど100年。その機会に、伯母(ミヨ子の妹)の嫁ぎ先でもある屋久島にまた行って、今度はポンカン原木園を訪れ、黒葛原翁のお墓にお参りしてみたい、と思ったりもしている。
〈147〉日本統治下の台湾へは現役の教師も多数派遣され、台湾在住の内地子弟、台湾人子弟の教育に当たった。