文字を持たなかった明治―吉太郎41 魂利っ(たましきっ)

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を続けている。

 前妻とその子をほぼ一度に亡くしたあとに、いまで言えばいずれも「バツ2」の中年どうしで結婚した吉太郎とハル(祖母)は、息子の二夫(つぎお。父)とともに親子三人の家庭生活を始めた。昭和3(1928)年の3月のことである。

 吉太郎の物語自体、除籍謄本などのわずかな資料と二三四(わたし)が子供の頃に伝え聞いた話が素材なのであくまで推測、想像の域を出ないのだが、生前の吉太郎や伝聞から立ち上がる人物像から「こうだっただろう」という部分も少なくない。それを基に引き続き書いてみよう。

 ハル、そして二夫が正式に「入籍」したとは言え、すでに家庭生活を営んでいた三人にとっては日々の生活は変わりなかっただろう。たまたまそのタイミングで、誰か文字を書ける人が――あるいは文字を書ける人に何かのついでがあって――役場に行って手続きをしてくれた、ということだろう。

 吉太郎はそれまでと変わりなく田畑に出る毎日だった。というより、農作業以外にできることもすることもない、という状況だったはずだ。その農作業も、ほの明るくなれば田畑に出て働き、夏場の暑い時間帯は帰って昼寝をし、暑さがおさまってからまた暗くなるまで働く、日の短い冬場は労働時間が減る、という日々だったことだろう。

 もちろん天候の影響は大きく受ける。強めの雨が降れば作業をあきらめざるを得ないが、季節や作業によっては大雨の中でも出かけたことだろう。日照不足も日照り続きもたちまち収穫量に影響した。すぐ近くにある「本家」のきょうだいどうしで助け合うことも多かっただろうが、地所をどんどん買い広げる吉太郎を、ほかのきょうだいがどう思っていたのかはわからない。

 ほかにこれと言った楽しみも持たない吉太郎にとって、自分の地所を広げることは人生の目的だったに違いない。もとよりそれほど大きいわけではない農家で五男として生まれ育ち、きょうだいの中でも特別に引き立てられるわけではなく、どちらかというと「その他大勢」の一人としてほっておかれるような育てられ方だった。と、思われる。

 当時の民法からも習慣からも財産相続などあり得ず、自力で生きていくしかなかった。人を出し抜くほどではないにしても――そこまでずる賢かったという話も聞いたことはない――、機を見るに敏というのか、ちょっとしたチャンスがあれば行動するとかお金をつぎ込むという傾向はあったのではないか。その一例が、少し前に書いた樟脳の採れる山に「銭取いけいっ(ぜんといけいっ)」という行動だったろう。

 そんな一面を見てきたのであろう、のちに嫁に来たミヨ子(母)は吉太郎を評して「じさんな たましきっ じゃいやっで」と言うことがあった。漢字を入れると「爺さんな 魂利き じゃいやっで」(おじいさんは 世渡り上手でいらっしゃるから)。

 「魂利き」とは、知恵が働く人、利口者、世渡り上手という意味で使われるが、この場合の「魂」は「機転が利く」という場合の「機転」に近い。つまり状況に合わせてすばやく判断ができる、結果世渡りのうまい利口者と呼ばれる、といったところだろう。

 たしかに無から有ほどではないにしてもほぼ徒手空拳に近いところから地所を買い広げていくには、勤勉なだけでなく、それなりの機転も必要だったはずだ。

《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典)>たましきき(たましきっ)

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