つぶやき 年の初めに――親孝行考
年が明けた。令和7年(2025年)、少しでも明るい年になりますように。
さて、本項の内容は本来一年の締めくくりに書こうと思っていたことである。昨年ここnoteでは、昭和5年生れのミヨ子さん(母)の半生を取り上げru
「文字を持たなかった昭和」のシリーズに一区切りをつけ、ミヨ子さんの舅である吉太郎さん(祖父)の物語「文字を持たなかった明治」に着手した。
しかし、合間にミヨ子さんの近況「最近のミヨ子さん」をかなり挟み、明治の物語はなかなか進んでいない。ミヨ子さんについて書き続けているのは、ミヨ子さんの状況がしばしば変化しているからだ。
ミヨ子さんが元気なうちに、と帰省したのが昨年5月の連休明け。当時ミヨ子さんは息子のカズアキさん(兄)家族と同居していた。ほどなく、脚力低下が進みお世話が難しい、という理由で近くの介護施設(グループホーム)に入所した。しかし入所直後ミヨ子さんは新型コロナに感染、別の感染症にも発症し緊急搬送され1カ月ほども入院。
11月、ミヨ子さんの入所後わたしは初めて帰省し面会した。最後の再訪となる可能性が極めて高いふるさとへも連れて行った。次の再会は暖かくなってからからかな、と思っていた矢先、つい先日ミヨ子さんはまた体調を崩して緊急搬送された。そのあたりは直近の「最近のミヨ子さん 体調異変」から「退院の先には?」で述べたとおりだ。
そんなこんなで、語弊がある言い方が許されるなら、だんだんと衰弱する方向の、しかも時として突然に訪れるミヨ子さんの変化に振り回されている。遠方に住んでいる娘のわたしでさえそう感じるのだから、もともと同居していて、いまも近くで見守っているカズアキさん家族はもっと大変だろう。
前回の緊急搬送、入院のときは本当に慌てた。「顔を見られる最後の機会かもしれない」と、取るものもとりあえず帰った。よくなって施設に戻ってからは、まめにハガキを出した。「反応」というか手ごたえがないことに虚しさを感じないと言えば嘘になるが、遠方から見守るということはそういうことだと自分に言い聞かせながら。
そして再びの緊急搬送の報せ。ミヨ子さんは幸い体調を取り戻しつつあるが、またいつ同じような状況が起きるかわからない。なにせ96歳になろうとしているのだから。わたしがなにかしてあげたくても、ミヨ子さんの体がはついてこられなくなっている。
わたしのいまの心境は、「思いつくことは可能な限りやった」。
遠方にいて、できることは限られる。手紙や送りもので思いを届けること、時間と都合が合う限り会いに帰ること、僅かな時間でもミヨ子さんが喜ぶであろうことをしてあげること――。思いつく限りのことはやった気がする。カズアキさんやお嫁さん(義姉)も、わたしの思いを酌んでできる限り協力してくれた。感謝している。
あとは静かに祈ることぐらいしかできないだろう。その祈りが届くことを信じつつ。