文字を持たなかった昭和415 おしゃれ(11) ブラウス
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べたが、ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペや上に着る服、足元、姉さんかぶり、農作業用帽子や帽子、そして「毛糸」と呼んでいたニット製品、中でも印象的だった「チョッキ」とカーディガンなどについて書いた。時期は概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。
「チョッキ」とカーディガンは、書いたとおり(少なくとも着始めは)よそ行きだった。一枚のきれいなブラウスもよそ行きのひとつだった。
そのブラウスもまた、いったいいつ頃買ったものだったか。二三四(わたし)が少女時代ですらすでにレトロな印象があった。まだ「レトロ」という言葉も知らず概念もなかった二三四には、そのときは「古臭いデザイン」としか思えなかったが、古いわりにはきれいに手入れされていた。
生地は化繊でシャリシャリした手触り、アイボリーホワイトとでもいうのか、ちょっと黄色味が入った白だった。左右の襟の角のところと、両方の身頃に同じような刺繍が施されていた。花をモチーフにしたシンプルなもので、花の部分はレゼーデージーステッチだったと思う。
薄い生地のためきちんと下着を着ないとちょっと恥ずかしいことになったが、ミヨ子は地域の女性たちが「シミズ」と呼ぶ下着を日頃からつけていたから、その点は問題なかった。「シミズ」が本来「シュミーズ」であることを二三四が知るのは、家庭科の「被服」の項目で学んだときである。
その、ある意味ではペラペラのブラウスを、ミヨ子はここ一番の外出のときにだけ着ていた。薄いが長袖なので着る季節は限られる。つまり春か秋だ。貸し切りバスに親子で乗っていく幼稚園の秋の遠足にミヨ子が着たのも、このブラウスだったかもしれない〈183〉。
めったに着ないブラウスは、ミヨ子が中年を迎える頃には不似合いなものなり、タンスの奥にしまい込まれた。一方で、昭和60年代に東京で社会人になった二三四はレトロという概念を覚え、このブラウスを思い出した。ちょうど毎日の服の着回しに頭を悩ますようになっていたところでもあった。帰省の折ミヨ子に「もらっていいか」と聞くと「もう私は着ないから」と快諾してくれた。
こうしてブラウスは、時を隔てて母娘二人に着用されたが、生地の薄いブラウスは場面を選び、二三四にとってはやや扱いづらい服ではあった。そのうちその時々の流行の服に押される形で、ビニールロッカー〈184〉の奥にしまいこまれた。やがて来るバブル経済期、ブラウスにも肩パットが入った威勢のいいデザインが主流だったこともある。
あのブラウスは処分したのだったか。行方すら思い出せないのが残念だ。
〈183〉幼稚園の秋の遠足については「秋の遠足」で述べた。(その一、その二、その三)
〈184〉金属の骨組みに厚手のビニールカバーをかけた、縦長の簡易クローゼット。高さは170cmくらい、幅と奥行きは50cmくらいで、内部の上部には畳んだ服を置ける棚があった。開閉は、前面部にとりつけた縦横のファスナーを開け閉めして行った。軽くて組み立てや引越しに便利で、デザインも多く、子供部屋などでも重宝した。ファスナー部分が壊れやすく、長く使っているうち閉まらなくなるのが欠点だった。