文字を持たなかった昭和279 ミカンからポンカンへ(2)嫁の意見
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
前項から、昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について書くことにした。
(1)背景では、ミヨ子が嫁いだ頃に行ったミカン山の開墾(「三十八(開墾1)」「三十九(開墾2)」)やミカン栽培を始めた経緯についても少し触れたが、ポンカン栽培転換の続きを書こうとしてちょっと考えた。というか想像してみた。
嫁であるミヨ子は、家業の経営方針決定の折々でどう関わったのだろう、と。
家業である農業の経営方針をどう決めていったのか、父親の生前聞いておきたかったが叶わなかった――それがnoteを書く動機のひとつにもなっている――。ミヨ子はまだいちおう元気ではあるが、自分が苦労した思い出を率直に語ってくれるかどうかわからなし、先月帰省したときの状態からすると、記憶自体かなり曖昧に、断片的になっているように見受けられる。思い出したことが、前後でつながっていないことも多い。
それで、「おそらく」と想像するしかないのだが、ミヨ子の嫁ぎ先(わたしの実家)の家族関係からすれば、嫁に意見を求めることはなかっただろうと思う。
理由を簡単に言えば、男尊女卑で名高い鹿児島の、しかも農村の、しかも農家だから、ということだ。
ミヨ子は、生前の二夫との関係、家庭での夫の立ち位置について「父ちゃんは絶対だった」としばしば振り返っている。「(舅の)吉太じいさんが生きている頃はじいさんがいちばんだった」とも。つまり家長の権限と決定、発言は絶対で、ほかの家族はそれにしたがうのが当たり前、もちろん嫁には発言権はない、ということだ。
子どもだった二三四もそのルールは十分に知っていたし、少なくともある程度の年齢まではそれが当然だと思っていた。集落や地域のほかの家庭も――とくに農家は――大同小異で、それほど疑問に思わずに育った。 ただ二三四たちは戦後の「男女平等、民主主義」を当然のものとして受け取った世代なので、そのうち家庭内のルールに疑問や抵抗を感じるようになっていくが。
しかし、ミヨ子たち昭和一桁生まれ、しかもずっと農村(それも鹿児島の)で育ち、暮し、教育程度もそれほど高くない世代、ことに女性は、何につけ家長――祖父や父、場合によっては叔父、長男等――にしたがうのが当然というしつけ、教育を受けただろう。「家庭では親に、嫁いでは夫に、老いては子に従え」とも教わっただろう。とくにミヨ子は、それほど豊かでない家庭の長女として育ったので、なんでも我慢することを求められた。結婚したら嫁ぎ先の舅(と姑)、そして夫にしたがうことに疑問はなかっただろう、と思う。
いまふと思ったのだが、ミヨ子が「それほど豊かでない家庭の長女として育った」点を、二夫は評価したから結婚したのだろうか。二三四が聞いた二人のなれそめはそんなシビアな話ではなく、同じ集落の娘がなかなかの美人になり「どうしても嫁にしたい」とごねたと聞いていて、それを素直に信じていたが。あるいは、当初はミヨ子を娶ることに難色を示した姑のハル(祖母)が、この娘なら辛抱強いかもしれない、と考え直して結婚に同意した可能性はある。
いずれにしても、ミヨ子は典型的な農家の嫁として、自分の意見など求められることなく、家庭生活と仕事をこなす日々を続けたことだろう。ミカンからポンカンへの転換もそれを決めたあとに聞かされただろう。