文字を持たなかった昭和 二百十三(藁その四、納豆)
昭和後半、鹿児島の農村にあったわが家の体験などから、藁の使い方について書いている(集める、敷く・結ぶ 、食べる)。
「食べ」たのは牛だったが、藁は人間の食べ物とも関係がある。代表的なのは、ゆでた大豆を藁つとに詰めて発酵させた納豆だろう。
二三四(わたし)が子供だった昭和40年代、鹿児島、少なくとも郷里の町では、納豆は一般的でなかった。身近な場所で市販もされていなかったと思う。「納豆」という食べ物があるらしいことは、テレビドラマや子供向けの学習雑誌などで知識として知ってはいたが、いったいどんなものなのか想像もつかないまま大人になった。
ただ1回、家で納豆を作ろうとしたことがある。
当時プロの農業者向けだったの雑誌『家の光』では、その時どきの営農のための知識や技術のほか、農家の家庭生活向上に役立つ(であろう)記事もたくさん掲載されており、前者はともかく、後者はとても興味深かったので、二三四は『家の光』が届くと記事を選んで読みふけった。
それらの記事の中に、藁つとを使った伝統的納豆の作り方が掲載されていたのである。
なんでも、藁には天然の納豆菌が付着しているので、ゆでた大豆を包んでおけば勝手に納豆ができるという。まだ見ぬ納豆を自らの手で作るべく、小学校高学年くらいの二三四はレシピ――というしゃれた言い方は当時なくて「作り方」どおりに、大豆を水に浸したあとゆでる傍ら、藁を用意した。藁の用意では父の二夫(つぎお)の手を借りた。
なにせ納豆そのものを食べたことがないので、藁つとがどんなものかもよくわからない。挿絵を頼りに「らしきもの」の形を苦心して作った。そしてその中にゆでた大豆を詰めた。これでよし。あとは数日待てばいい。
はずだったが、大豆は納豆にはならなかった。発酵せず、もちろん糸も引かず、藁のなかで変色しただけだった。簡単に言えば、腐っていた。
いまにして思えば、大豆を詰めたあとの藁つとは、少し温かいところに置いておかなければならなかったのだろう。しかし、祖母のハルと母ミヨ子が毎年味噌を仕込むのを見てはいても、発酵という働きの基本的な仕組みを理解していなかったから、保温にまで頭が回らなかったのだ。あるいは保温についても書いてあったのに、雑誌は「全国誌」なので、温暖な鹿児島ではいらないと思ってしまったのかもしれない。
それ以来、納豆という情報に接すること自体少し苦手になった。北九州にある大学に進学して周りが納豆を食べていても、自分から進んで食べることはなかった。納豆を買うようになったのは、のちに中国で勤務したとき。手に入る日本食材が限られる中、日本食品を扱うお店の冷凍庫で納豆を見かけてからである(つまり冷凍して輸入された納豆だった)。
いまも納豆は「大好き」でもないが、週4、5回は食べる。わたしの筋肉の何パーセントかは納豆でできている計算だ。