文字を持たなかった昭和329 梅干し(1)梅の木

 やっと「文字を持たなかった昭和」に戻ってきた。

  「文字を持たなかった昭和」では、昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 直近では、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について37回にかけて述べた。書いているほうにとってはずいぶん子供の頃のことで、インターネットで確認して参考にした農作業の手順も当時とはかなり違う部分がある。このため農作業について書くのは骨が折れるし、正直なところ自信もない。

 その後4回ほど別の話題を続けたのは、べつに逃げたわけでもないのだが、農作業から少し離れたい気持ちがあったのは確かだ。

 再開した「文字を持たなかった昭和」では、保存食品としての梅干しについて書いてみる。以前も、味噌(中・後編もあり)や漬け物「ぐるぐる剥き」と呼ぶ干しダイコンをはじめとする乾物類などについて書いており、そのバリエーションとも言える。折りしも季節は、スーパーや八百屋の店先に手作り用の青梅が出回る頃だ。

 ミヨ子の嫁ぎ先、二三四(わたし)の生家でもあるその家では、梅干しは当然のように手作りだった。というより、当時の集落や地域の農家ではおよそすべての保存食品は手作りするものだった。いや、口に入るものはほぼ全て、と言ってよかった。別にこの家だけでなく、どの農家も食べ物は何でも手作りしていた。それは江戸時代以前から受け継がれてきたことであり、明治、大正期も同じように続いた。様子が変わるのは昭和も戦後の経済成長を迎えてからようやくである。

 そんなわけでどの家も梅干しはほぼ100%手作りしていた。そしてその作業は、ほぼ100%一家の主婦が担っていた。

 材料となる実は、どの家でも自宅の庭か自分の畑に生えている梅の木で育つ。ミヨ子の家の場合、幅は広くないが母屋とそれに続く納屋に沿う形で長く伸びる庭の、手前側と奥まった場所に1本ずつ梅の木があった〈156〉。

 手前側の梅の木はやや老木というか、大きくて年季が入っていた。曲った幹からこれまた曲った枝が何本も伸びていた。奥まったほうの梅の木は、あとになってたまたま落ちた梅の実が木に育ったのか、幹も枝も細かった。ミヨ子たちが梅の木と呼ぶときは、たいてい古い木のほうを指した。

 南国とは言えそこそこ冷える冬、白く清楚で香り高い花をたくさん咲かせた梅の木は、青葉の季節には小さな実をつけはじめる。梅雨に入る頃、実は大きくなっていた。

〈156〉屋敷の様子については「八十一(屋敷)」で述べている。 

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