最近のミヨ子さん Xデー(施設入所)、その後

 昭和の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。たまにミヨ子さんの近況をメモ代わりに書いている。

 少し前にバタバタと施設への入所が決まり、ついに入所の日――Xデーがやってきた。前項では、入所に同行したお嫁さん(義姉)から動画で送られてきた入所の様子について述べた。施設が閉鎖的ではなさそうなことや、ミヨ子さんの部屋がきれいなことにわたしはとりあえず安堵しつつも、「一人残されて大丈夫だろうか。どんな気持ちでいるのだろう」とミヨ子さんの内心を慮ったことについても。

 本項はその続きではあるのだが、「最近のミヨ子さん」と題しつつ、、むしろわたしの内心の想いについて述べることになる。書いておきたいと強く思うからだ。

 送られてきた動画を見て、ツレとも「とりあえずはよかったよね」と話した。それは半ば自分に言い聞かせるためのものだと知りつつ眠りについた翌朝。

 目覚めて、布団の中でミヨ子さんを想った。

 朝起きて、見知らぬ部屋にひとり横たわっていることに気づいたとき、周りに知った人が誰もいないとわかったときの感覚は、いったいどういうものだろう。

 施設に入ることは「説明して、いやだとは言わなかった」という趣旨のことを息子のカズアキさん(兄)は言っていたが、説明したから理解できているとは限らないし、その理解とほんとうの認識は違うかもしれないし、その瞬間認識できていたことでも覚えているとは限らない。

 ここ1、2年のミヨ子さんの認知状況から考えるに、むしろ半分以上理解できていないだろうし、理解できた(ように見えている)ことも、数分後にはすべて忘れている可能性が高い。

 知っている人がいなくて困惑してないだろうか。家族に捨てられた気持ちではないだろうか。横になった状態でさまざまに考えを巡らしているうちに、涙がこぼれてくる。

 わたしの気配に気づいたツレが「大丈夫だよ、お義母さんは『お世話が大変になってきたから、そういう場所(施設)に移してくれたんだ』って理解してくれてるよ」と声をかける。思わず「そんなわけないじゃん、お母さんはここ何年かで、いろんなことがわからなくなってたじゃん」と反論してしまい、自分の発言に驚きまた泣いてしまう。

ごめんなさい、お母さん。何もできなくて。

 家にいたくない気持ちも相俟って、高校卒業後「自立」の道を選んでからわたしが実家で両親と暮らすことはなかった。もちろん帰省はしたが非日常の範囲でしかない。どちらかというと父親のほうを意識しながら生きてきたわたしは、母親であるミヨ子さんに親孝行らしいことができたかと言えば、自分でも首を傾げざるを得ない。

 わたしが郷里を出てから、ミヨ子さんはことあるごとに
「まっと近かれば よかどんねぇ」(もっと近くにいてくれたらいいのにねぇ)
と漏らした。わたしはその度に「いつでも連絡がつくじゃない」という趣旨のことを言った。海外にも何回か、そのたびに何年も住んでいたから、その時期を終えて首都圏に定住したいまはむしろ、以前よりもずっと母親の近くにいるという気持ちでもあった。

 しかし、夫に先立たれたミヨ子さんがだんだんと老いて、認知機能低下の症状が顕著になってくるにつれ、わたしは「もっと頻繁に会っておきたい」と強く願うようになった。そんな矢先、バタバタと施設入居が決まり、あっという間にミヨ子さんは施設に入ってしまった。もう簡単には会えない。

 近くにいられないことが、こんなに悔いを残すなんて。

 わたしはいま、深い後悔の中にいる。自分の生き方を悔いてはいないが、ミヨ子さんに安らぎを渡してこられなかったことへの後悔だ。

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