文字を持たなかった昭和281 ミカンからポンカンへ(4)接ぎ木
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)背景、(2)嫁の意見、(3)ミカンの仲間と続けてきた。
ミカンを同じ柑橘類のポンカンに転換する、と書いてきたが、具体的に考えれば重労働である。二三四(わたし)は、ミカンの木を抜いてあらたにポンカンの木の苗を植えたわではなく、ミカンの木にポンカンを「接ぎ木」したと聞いているが、それにしても大変な作業のはずだ。
まずもともとあるミカンの木の、どのくらいを残しどの程度をポンカンに転換するのか、から決めなければならない。ポンカンの実が生るようになるまで数年かかるわけだから、その間の減収も含め、周到な計算が必要だった。もちろん、農協から「営農指導」を受けただろうが、最後に決断するのはミヨ子の夫の二夫(つぎお。父)だ。
それを決めたら、ミカンの木の伐採である。伐採と言っても、枝を切ってそこに接ぎ木する方法(高接ぎ)を採ったと思われる。それでも、すでに実が生るほど育ったミカンの木を、それも数十本は切るのだからけっこうな作業量だ。期間も相当かかっただろう。舅の吉太郎は枝を切るような力仕事はもうできなかったから、作業は基本二夫が、ときに近所の農家から男手を借りながら片づけた。ミヨ子が直接伐採に関わることはなかったが、切った枝の片づけなどこまごまとした仕事を手伝った。
二三四がうっすら覚えているのは、切ったミカンの枝を風呂の焚きつけに使ったことである。そのまま持ってきたのではなく、扱いやすい長さにさらに切ったあと乾燥させ、束ねてから耕運機などに載せてミカン山から持って帰ったものだったはずだ。
接ぎ木したあとも技術が要った。これも営農指導を受けて、二夫が自分で施していった。具体的にどんな障害や困難があり、それをどう克服したのかまで、子どもの二三四たちは知らないままだったが。
それにしても。実が生るまで育てた果樹の枝を切る気持ちとはどんなものだったか。いくら「これ以上作っても、売り先がない」ゆえの決断だったとは言え、ミヨ子にしてみれば――いや、家族全員にとっても――子供ひとりの死産と引き換えに墾した山に植えたミカンの木である。
この項を書くまで、ポンカンに転換するためにミカンの木を伐採することにした経緯や伐採の光景を具体的に想像してこなかった。自分の中では「ある時期からミカンに代わってポンカンを作るようになった」といいう事実だけが単体で存在していたから。
しかし、その事実が生まれるまでの経緯と、関わった家族、とくに両親の心情を考えると、胸を切られるような思いがする。