文字を持たなかった昭和 百三十(幼稚園のお弁当)

 母ミヨ子の半生記のつもりで書いているのに、食べ物の話が続いている。昨日は朝ドラのお弁当について書いてしまった。

 お弁当つながりとして、まず幼稚園時代のお弁当について書いておく。

 ミヨ子が生まれ育ち、嫁いでからもずっと暮らしていた鹿児島の農村部の小さな町には、小学校が2校、中学校が1校あった。幼稚園ができたのは戦後しばらく経ってからだと思う。

 小中学校で給食が始まると、幼稚園でもおかずだけは給食の献立を共有するようになった。中学校と、大きい方の小学校、それに幼稚園は、東シナ海を臨む松林を背にほぼ並んで建っていたが、町の給食センターは小学校の裏手にあり、幼稚園からもすぐ取りに行けたのだ。だから、幼稚園に通う子供のお弁当にはごはんだけを詰めて持たせればよかった。

 上の男の子には、ふたに野球のバッターの図柄がある青いアルマイトの弁当箱を用意した。下の女の子(わたし)には、同じくアルマイトで、上の子より小ぶりの、ふたには赤地にピンクのバラが描かれたものを買ってやった。

 ごはんだけなので、おかずが片寄るとか汁が漏れるという心配をしなくてよいのは助かった。朝炊いたごはんを詰めて、ハンカチに包み通園バッグに入れて持たせた。食べるときは給食で使うスプーン――いわゆる先割れスプーンと呼ばれるもの――を使うので、お箸も持たせなくてよかった。

 冬場はご飯を温めてくれた。登園後、こどもたちがハンカチから出したお弁当箱をまとめて専用の容器に入れ、お昼まで温めておく。食べる頃には熱々とまでいかなくてもほんのり温かいご飯になっていたらしい。

 幼稚園の子供たちのおかずは、先生たちが取りに行って配膳してくれたのだと思うが、子供たちも細かいところまでは覚えていない。ただ「給食のおかずはいつもおいしい」と言っていたし、母親にとっては、毎日のお弁当のおかずに頭を悩ませなくてよいのは助かった。

 子供たちが小学校へ上がり、弁当箱がいらなくなってからも、ふたつの弁当箱は食品入れや、農作業時の弁当箱としてずっと大事に使っていたが、いつの間にか「どこかに行ってしまった」。

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