文字を持たなかった昭和358 ハウスキュウリ(7)規模

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることにして、労働力の状況として当時の家族構成や、長男の和明(兄)が地元での就職が決まらず労働力として当てにできなくなったこと、ハウスを建てることにした場所などを書いてきた。

 ハウスキュウリをやる場所は決まった。自前の田畑もそこそこあるのに、わざわざ土地を借りるらしい。どのくらいの規模なのか。

 このあたりは高校進学前後の二三四(わたし)の記憶であり、「〇アール」といった具体的な数字で示せないのがもどかしいし、説得力もないとは思うが、しかたがない。できるだけ数字に近づけてみよう。

 ハウスを覆っているのはビニールだったが、ひとつひとつのハウスはスイカのときより各段に大きかった。人が背をかがめずに出入りし、作業できる高さがあった。三角屋根に仕立てられた骨組みの、1棟に相当する幅は5メートルくらいあった。ただし、1棟と言っても支柱があるだけで隣とは隔たっておらず、内部の土地は体育館のようにつながっていた。

 三角屋根は10ほどもあっただろうか。つまりハウスの幅は50メートル程度。長さも同じくらいかそれ以上あったと思う。1a(アール)は100㎡なので5aくらいということか。当時、地域でも新たに取り組んだはずのパイロット的な事業の規模としては大きいのか小さいのか、二三四にはよくわからない。そもそも、記憶の中の規模でしかない。

 帰省の機会にビニールハウスがあった場所に行けば、もう少し正確な規模がわかるだろう。それにしたってメジャー持参というわけにもいかない。なにより、ハウスキュウリをやっていたあの場所にまた行くことは、二三四にとってはけっこうな心理的負担だ。そのくらい、ハウスキュウリの思い出は重たい。


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