文字を持たなかった昭和278 ミカンからポンカンへ(1)背景
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。昭和60年頃までの概況――二三四(わたし)が理解している範囲で――を、前項「ミヨ子の半生―昭和5~50年代以降」に列記した。
本項では「昭和40年代初め頃 価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替える」について書いてみたい。
のちにミカンを植えることにした山は舅の吉太郎のがんばりで買ったものだが、果樹を植えるための段々畑にするのは、ミヨ子が嫁いだ頃から人力で開墾して整備したものだった。それについては「三十八(開墾1)」「三十九(開墾2)」に書いた。開墾の重労働のために、ミヨ子たち夫婦は最初の子どもを亡くしたことも。
吉太郎や、その息子でミヨ子の夫である二夫(つぎお。父)が、もともと栽培経験のない果物に経営を広げたのは、戦後の食料供給が安定してきて――加えて、小麦などアメリカからの食料輸入も増え、というか増やされた影響もあり――基本的な食料であるコメやイモ、野菜などでは収入が限られるようになる一方で、「食生活の多様化」を見据え、経済価値の高い作物が奨励されるようになったためだと思う。どちらかというと跡継ぎである一人息子の二夫の意見が大きかったかもしれない。
苦労して整備したミカン山ではあったが、果物としてのミカンがありがたがられ、比較的いい値段で売れた年月はそう長くなかったはずだ。なぜなら、同じような「営農指導」は気候や土地が似た地域ではどこでもやっていただろうし、それは鹿児島県内にとどまらず、もともと柑橘栽培が盛んだった地域ではもっと手広く行れていただろうから。
一方で、食料が安定して購入できる時代を迎えた日本の消費者は、だんだん目新しいものを求めるようになる。ミカンが潤沢に出回るようになると、もっと違う果物を食べたくなった。そのため、あるいはそうなることを見越して、新しい品種の果物を導入することを、政府や自治体の農業部門、農協などは農家に「指導」したことだろう。
もちろん「指導」に従わなければならないわけではないが、集荷や流通の中心を農協が担っていた当時は、個々の農家が市場に出荷することは現実的ではなかったし、それこそ地域の農家どうしの社会の中で「村八分」にされかねなかっただろう。
なにより――ここはけっこう重要だと思うが――二夫自身が農協の指導に協力的だった。
もともと地元の農業学校(昭和初期には師範学校に格上げされた時期もある)に進み、農業の理論や技術を体系的に学んだことのある二夫は、新しい政策や技術にも関心が高かった。加えて、跡継ぎとして地域のネットワークにしっかり根を張るためにも、農協や農業関係者とのつながり、つきあいには、見ようによっては過度なほど関わっていた。
ミカンからポンカンへの転換は、その結果のひとつとも言えた。