文字を持たなかった昭和506 酷使してきた体(18)ねじれ腸余談(なんでも食べられる幸せ)
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。
直近では、夫の二夫(つぎお。父)が他界したあと一人暮らしをしていたミヨ子が、ねじれ腸と診断され食べるものを厳しく制限し、娘の二三四(わたし)は栄養失調を心配するほどだったこと、幸いねじれ腸は大事に至らず、長男のカズアキ(兄)家族と同居するようになってからは、お嫁さん(義姉)の気働きのおかげで、消化に悪いと避けていた食材も食べるようになり元気を取り戻したことなどを述べた。ミヨ子が80歳を過ぎた頃のことである。
余談だが、カズアキ一家との同居を機に「以前は避けていた」が食べるようになった食材は、ほかにもある。それは青魚だ。
ミヨ子は若い頃、鮮度の悪いイワシに当たり<218>、以来青魚を口にするとじんましんが出るようになった。子供たちを含む家族もそう聞かされていて、おかずに魚料理を出すとき、ミヨ子だけは別のものを用意する、ということが当たり前に続いてきた。
青魚単体はもちろんのこと、青魚の加工品も口にできなかった。鹿児島の特産、当地では「つけあげ」と呼ぶさつまあげの主原料は魚のすり身だが、何の魚かお店の人に聞いても、どれだけ正確かはわからない(もちろん、いまは原料表示が義務付けられている。ミヨ子が若い主婦だった頃の話だ)。つまるところ、練り物の類は食べないほうが「安全」だった。
そんなわけで、ミヨ子が食べられる魚は鯛や太刀魚などの白身の魚――多くは高級魚だ!――、それもしっかり火を通したものに限られた。刺身も、白身ならよさそうなものだが鮮度が心配なようで、ゆでダコ以外は口にしなかった。シラスやちりめんじゃこの類も、青魚の稚魚だという理由で口にしない魚介類のひとつだった。
しかし、カズアキ家族と同居するようになり、最初こそさまざまに気を使っていたお嫁さん(義姉)も、ミヨ子自身が気づかないで食べてしまった場合、アレルギー反応が出ることはまずないということを「発見」したらしい。
それからは、本人が「食べられない」(と思っている)食材を料理に入れたい場合、いちいちミヨ子に断らず、最初は少なめにして様子を見て、機会を追って量を増やし、やがてほかの家族と同様に盛り付ける、というふうに段階を踏んでいったそうだ。
いまでは、焼いたり煮付けたりして青魚の形が残っているものや、まるのままのさつまあげのように一目でわかるものでなければなんでも食べられるらしい。もちろん、黙っていれば、である。
子供の頃から母親の青魚アレルギーを聞かされ続け、変則的な食卓を受け入れ、自分が料理を作ったり食事に連れて行ったりする立場になってからは、母親には青魚を食べさせないよう細心の注意を払ってきた二三四としては、なんとも拍子抜けする話ではある。それに、食べられるようになった、というよりは、認知機能の低下に伴って「何を食べているか」しっかり認識できなくなったせいもあるかもしれない。
ただ、知らないとはいえ食べても体が反応しないということは、もともと重度のアレルギーではなかったのだろう。以前も、少量なら食べられたのかもしれない。そうしたら、もっと豊かで健康的な食生活を送れただろうに。
ともあれ、人生の終盤の時期になんでもおいしく食べられる機会、生活を与えてもらえているのは、ミヨ子本人にとっても周囲にとっても幸せなことだ。二三四にすれば、母親にいつもおいしいご飯を作ってくれているお義姉さんには、いくら感謝してもし足りない。
<218>ミヨ子の青魚アレルギーについては「百二十六(魚屋)」でも軽く触れたが、詳細な経緯については改めて述べたい。
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