文字を持たなかった昭和 百九十六(秋の遠足、その一)

 昭和40年代前半の鹿児島の農村。収穫で忙しい時期でもあるが、幼稚園や学校、そして町(ちょう)全体と立て続けに運動会が行われ、行事の多い季節でもある。

 秋、幼稚園や学校では遠足も計画された。遠足は春にもあるのだが、春が徒歩で行ける範囲なのに対し、秋はバス遠足だった。小学校に上がるとバス遠足は子供たちと引率の先生だけになるが、幼稚園では「父兄」〈124〉同伴だった。

 「父兄」と言っても、園児に同行するのはほぼ例外なく母親だ。当時離婚は珍しかったが、病気などで母親が他界して父親だけ、という家庭もなくはなかった。そういう家庭で「父兄」として同行者を出すのは難しかったはずだが、お母さん以外の人が同行した園児が当時どれほどいただろうか。幼稚園ぐらいだとまだ若いお母さんが多く、両親とも揃っている家庭がほとんどだったのかもしれない。

 まだ「自家用車」が普及したとは言えず――少なくとも、ミヨ子たちの町ではそうだった――、レジャーという概念もこれからという時代、バスで出かける遠足は子供にとってのみならず、母親たちにとっても、極めて非日常的な体験だった。

 二三四(わたし)は、町の幼稚園で初めて設けられた「年少組」から2年幼稚園に通った(年中組ができるのはずっとあとだ)。秋の遠足の機会は2回あったはずだが、年長組の1回しか覚えていないのは、できたばかりの年少組のカリキュラムはやや変則だったのか、たんに忘れただけか。

 遠足の行先は動物園だった。

 当日の朝、ミヨ子は早起きしてお弁当を作った。まだ5歳の二三四と自分の分だけならそれほどたくさん作る必要はないが、舅の吉太郎も姑のハルも健在だったし、夫の二夫(つぎお)含め昼ごはんとして食べてもらう分も計算して多めに作った。ついでに作る、というより、ミヨ子としては「遊びで出かける自分たちだけがご馳走を食べるのは申し訳ない」という気持ちが強かったのだ。何を作ったかは、お弁当を食べるシーンで紹介しよう。

 当時(いまも、かもしれない)鹿児島県内の動物園と言えば鹿児島市内に1か所だけで、「鴨池動物園」〈125〉と言った。名前の由来は、園内に「鴨を放し飼いした池があるから」ではなく、元々の地名だ。もっとも、以前はその名の通り鴨が多数生息する池があったのかもしれない。

 ミヨ子たちの町から鹿児島市まではざっくり40kmくらいある。高速も、バイパスのような広い道路もなかったから、大型バスで片道1時間かかったはずだ。そもそも乗り慣れていないクルマでの長時間の移動には、大きな心配ごとがあった。乗り物酔いである。

 それまでも、地域の行楽などで長時間バスに乗る機会があったが、ミヨ子はクルマに「酔った」。そしてその体質は二三四にも伝わっていたようだった。

 「富山どん(殿)」〈126〉が年に何回か交換にきてくれる置き薬の中には酔い止めはなかったので、町の商業地区にある薬屋で買ってくるしかなかった。子供たちが体調を崩したときにお世話になる隣り町のY医院に行った帰りに、薬屋に寄って買っておくこともあった。

 乗車前の、薬の説明書どおりの時間に錠剤を飲んでおくのは、バス移動のときのミヨ子の「お約束」で、二三四にも「幼児の分量」を同じ時間に飲ませてから、家を出た。 

〈124〉いまで言う「保護者」は「父兄」と呼んでいた。戦後の法律改正と民主主義が始まるまで長く続いた家長制は、社会システムや人々の意識の中にまだ強く残っており、一家を代表し管理するのは父親、父親の代理は兄(多くは長兄)という考え方が受け継がれたためだろう。父兄という文言に疑問を抱くような人は、昭和が終わるころになっても、少なくともミヨ子たちが住んでいた鹿児島の農村にはまずいなかった。

〈125〉市街地の整備に伴ってだと思うが、昭和40年代の終わり頃に鴨池動物園を継承する形で、より規模の大きい平川動物園が、やはり鹿児島市の郊外に新設された。

〈126〉「富山どん(殿)」については「二十五(恩人、Y先生)」の注釈(※34)を参照。

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