文字を持たなかった昭和501 酷使してきた体(13 )子宮がん(続き)
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
しばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにし、直近では働き盛りを過ぎてからの状況を綴りつつあり、前項で1990年代前半に受けた子宮がんの手術について書いた。
子宮を全摘した手術は無事に終わり、お医者さんにお願いして長めに入院できたおかげで病院にいる間はゆっくり静養できたが、退院後もそのまま順調に回復、というわけにはいかなかった。
ミヨ子はケロイド体質のようだった。ケロイドとは傷跡がきれいに回復せずひきつったり盛り上がったりする状態になることを言うが、子宮を切除し縫合したあとがうまく再生していない様子だった。痛みが残っているし、たまに出血もある。
それをどのような治療で改善あるいは抑制させたのか、娘の二三四(わたし)はよく知らない。海外勤務中に1週間ばかり休暇を取ってお見舞いに行き、家のことを手伝ったあとはまた戻ってしまったからだ。
数か月後、二三四が次に帰国したときもミヨ子の体調は万全ではない様子だったが、とりあえず家のことや簡単な農作業はできていた。夫の二夫(つぎお。父)は、壮年期に失敗したハウスキュウリでこしらえた負債を返済するために土木作業に出ていたから、毎日お弁当をこしらえ、帰宅後はくつろげるよう気配りする生活に戻ってもいた<216>。
切除あとの癒着がどのくらいの期間続き、どのような経緯で完治したのか二三四は確認したことはないが、気が付けば「婦人科系」の不調の話はミヨ子の口から聞かれなくなっていた。
とはいえ患ったのはなにぶん「がん」だ。退院後は定期的に検査を受けた。〇カ月検診、〇年検診の話題は母親と娘の間で折に触れて交わされたが、結果はおおむね良好で、その都度胸を撫で下ろすということが繰り返された。やがて10年ほども経ち、再発の心配はまずないという時期を迎えた。
さすがにもう大きな病気はしないだろうと、ミヨ子自身も家族みんなもほっとしたのだった。
<216>働きに出はじめた二夫に気を遣うようすは「困難な時代(38)土木作業に出る③妻の気配り」で述べた。