文字を持たなかった昭和468 困難な時代(27)娘の進路
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、高校生だった二三四(わたし)は、母親に「いっそ離婚してしまえば」と提案までしたことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。
やがて二三四は高三になり、卒業後の具体的な進路を決める時期を迎えた。二三四のことはいつか本人(つまりわたし自身)の当時の心情も含めて書きたいと思うが、簡単に言えば「自立したい」というのが切迫した気持ちだった。
「困難な時代」を綴る中でも触れてきたとおり、困窮し家の中の雰囲気がぎすぎすする中で二三四は、女性が男性(配偶者)と一蓮托生にならざるを得ない哀しさや、経済的に自立できないことの悔しさを、自分なりに理解しつつあったのだ。
出した結論は、ひとまず家を離れたい、ということだった。目標は働くにしても学業にしても県外である。
一方で両親はともに、二三四には県内に留まることを切望した。というよりそれが当然と思っていた。つまり「女の子を外に出すなんて」という考え方である。そしてそれ以上に「女の子を大学に行かすなどあり得ない」と思っていた。
進学に反対だったのは、二人きょうだいの上、長男のカズアキが高卒で就職していたからでもあった。じっさい近所でも
「男の子を大学にやっていないんだから、女の子の進学なんて(あり得ない)」
と噂する人たちがいた、とあとで二三四は耳にした。
そもそも、ミヨ子たちが暮らしていた小さな集落やそこを取り巻く農村地帯はもとより、町(自治体)全体の中でも、昭和50年代当時4年制大学に進学した女の子は、まさに数えるほどしかいなかった。逆に短大生はそこそこいて、「女の子の進学先は短大」というのが常識のようになっていた。勉強ができてもできなくてもで、できる子は県立短大へ、それほどでなければ私立へ、という感じだ。もちろん、就職する子も男女問わず一定数以上いたから、進学自体が一種の「ぜいたく」と捉えられてもいた。
当時の両親、ことに二夫(つぎお。父)にしてみれば、手塩にかけた娘を手元に置き、いずれは手の届く範囲で結婚させ、孫の顔もちょくちょく見せにきてほしい――という青写真を描いていたに違いない。と二三四はずっと思っていた。
もちろんそんな「父親ならではの心情」があったのは間違いないとして、現実問題として、娘には一日も早く就職して家にお金を入れてほしい、という差し迫った気持ちのほうが強かっただろう。家から通える場所であれば、住居費などの余分な出費が抑えられるうえ、家の手伝いも期待できさらに理想的なのだった。